第7話
数学の時間、黒板の上でチョークがすべる音を聞きながら、わたしはふと、xという文字の正体について考えていた。
先生は、二次関数の応用問題を解いているのだけれど、あのxっていうものは、本当に解かれるために生まれてきたのだろうか。もしxが、解かれたくないと思っていたとしたら、どうするのだろう。誰かに見つけられるたびに、秘密を暴かれて、最後は答えにされてしまう。ちょっとした運命のようで、残酷にも思えた。
窓の外を見ると、風に舞う落ち葉が一枚、ガラスに張り付いていた。あれも一種の、xなのかもしれない。風という方程式の中で、どこに落ち着くかを、解かれてしまった葉っぱ。けれど、葉っぱは、まだ自分の意志で貼りついているように見える。もし解かれた後にも、自由が残っているのだとしたら、それは救いのように思える。
前の席の子が振り返って、「次のテストやばくない?」と囁いた。わたしは、「やばい」とだけ返す。ここで「余裕」なんて言ったら敵を増やすし、「無理」と言えば仲間が増えるけれど、自分の首を絞めることになるかもしれない。
実際の勉強状況に関わらずに使用できる「やばい」は、便利な言葉だ。ここでは、ごく自然に、曖昧な返事によって、相手に余計な不安や期待を抱かせないという、ある種のずる賢さが暗黙のうちに要求されているのだ。女子高生の会話は、数学よりずっとバランス感覚が必要になる。
放課後の教室、窓の外で、風が強くなり、昼間の葉っぱがようやくガラスから剥がれ落ちた。自由になった瞬間を見届けたようで、すこしだけ気持ちが軽くなった。
明日もまた、わたしはxを解かされるだろう。でも、わたし自身がどのような答えを出すかは、まだ未定のままでいい。
昇降口で靴を履き替えるとき、目の前の掲示板に『校内マラソン大会のお知らせ』と貼られていた。わたしは、すこし笑ってしまった。人生って、結局マラソン大会みたいなものなのかもしれない。苦しくても走らされ、誰かと競わされ、ゴールしたら、「頑張ったね」と拍手される。でも、本当に欲しいのは、拍手じゃなくて、水分補給と休養なのだ。
家に帰ると、母が夕飯の支度をしながら、「今日も疲れた?」と聞いてきた。わたしは、「まあまあ」と応える。「まあまあ」という言葉も、便利だ。つらいときも楽しいときも、どちらも包み込んでしまう。
母は、「まあまあならよかった」と笑った。彼女の中では、「まあまあ」は安心材料になるらしい。
夜、宿題を広げたけれど、手は止まったままだった。xを解く前に、まずは自分の今日一日を、解くべきなのかもしれない。
朝は眠くて始まり、授業は半分夢の中で、昼はお弁当を食べて、放課後はマラソン大会の告知に笑った。それが答えだとすれば、まあまあであり、そして意外と悪くないと、わたしは思うのだった。