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第6話

 時計の針は、いつも通りに時を刻んでいるはずなのに、教室の空気は、どこか歪んでいる気がした。秒針の、カチ、カチ、という音が、耳の奥にひっかかるように響いてくる。

 窓際の席に座っていると、陽射しがノートの白さをやけに強調して、数式よりも余白のほうが目立つ。数学の授業であることを忘れるくらいに、光の方程式が場を支配していた。

 黒板に並んでいく記号は、確かに数学なのだけれど、どこかで、数の言葉遊びに見えてしまう。数字や記号たちが、文字通り黒板の上で遊んでいるみたいに思えて、わたしはそれを眺めているだけで、うっかり一時間が過ぎそうになる。

 退屈なのか、面白いのか。判断に迷うのは、きっとどちらにも傾きすぎていないからだろう。

 数学の美しさは、理解できる人にとっては、音楽のようだという。けれど、わたしにはまだ、旋律に聞こえるまでに、耳が育っていない。せいぜい、拍子木のカンカンというリズムくらいにしか感じられない。それでも、この響きが、日常にリズムを与えているのだと考えれば、まったく無意味ではない。

 隣の席で友人がペンを転がす音が、ころころと床に転がったビー玉みたいに響いた。

 わたしの視線はそのとき、目の前に広げたノートの端に落ちていた。そこには、ちいさな落書き。無意識に描いたのか、何重にも丸が連なっていて、結局は花のような形になっていた。花はいつだって、無意識に芽吹いてしまう。

 意図されていない線が、形を持つということは、わたしには、計算よりも有意味な現象に思えた。まだ、この世の作為に汚染される前の、失われやすい、なにか。それが、そこにある気がするのだ。

 先生の声は、相変わらず板書を追いかけるように流れている。けれど、その声が遠くから聞こえてくるラジオみたいに感じられるのは、わたしの耳が勝手にチューニングをずらしているからだろう。

 周波数がぴたりと合えば内容は理解できるのに、すこしでもずれれば、ただの雑音にしかならない。授業というものは、ラジオの電波のように、受け取る側の耳次第なのかもしれない。

 気がつくと、窓の外には白い雲がふわふわと漂っていた。黒板の数式よりも、よほど自由な形をしている。誰も正解を決めないから、雲は雲のままでいられる。もし雲にテストがあったなら、自由に形を変えよ、という設問で、満点をとれるだろう。しかし、わたしたちには、そんな設問は出されない。いつだって、解を求めよ、ばかりで、自由はすくない。

 それでも、わたしは雲を見上げながら思う。人間だって、本当は、もっと自由に形を変えられるのではないか、と。

 笑うときの顔と、真剣なときの顔と、眠たいときの顔と。全部、同じわたしでありながら、違う形をしている。雲と、なんら変わらないはずだ。ただ、わたしたちは、正解を押し付けられる分だけ、不自由に見えるのだろう。

 雲の形に善悪がないように、他の人たちの多様な側面も、ただそういうものなのだ、と受け入れられれば、この世の不自由さは、すこしは和らぐのかもしれない。

 チャイムが鳴った。雲の形が変わるよりも早く、時間の区切りが訪れる。ノートの花を閉じて、シャーペンをペンケースに戻す。数式は消えても、雲はまだ、空にある。

 どちらが残るのかと考えると、答えは案外曖昧だ。黒板の文字は消えても、頭のどこかには、跡が残る。雲は流れて消えるけれど、心の中には、見たという記憶が沈む。

 授業が終わった瞬間のざわめきは、まるで、一斉に鳥かごから放たれたスズメの群れのようだ。机の間をすり抜けながら、わたしもその群れに混ざってみる。けれど、スズメたちと違って、自由に飛べるわけではない。

 わたしたちはみな、廊下という狭い空に押し込められて、みんな似たような方向へ進むしかない。人間はスズメよりも賢いはずなのに、行動は意外と似ている。


 昼休みになると、食堂の匂いが廊下まで漂ってきた。揚げ物の香りは強すぎて、わたしの胃袋を直接叩いてくる。食欲というのは、理屈よりも単純で、空腹という方程式の解を、一瞬で導き出す。つまり、お腹が空けば、食べたくなる。

 わたしはお弁当を取り出しながら、教科書には書かれていない生活の数式に、ちいさく笑った。すなわち、ごはんがおいしければ、わたしの心は満たされる。おにぎりひとつで満点がとれるのなら、それで十分なのだ。


 午後の授業は、眠気との戦いだった。数式よりも夢のほうが甘美で、眠気の誘惑はどんな証明よりも強力だった。眠るのは悪いことだと分かっていても、まぶたは律儀に重力に従っていく。ここで抗える人が、本当の意味での優等生なのだろう。

 わたしはもちろん、そういう優等生ではない。むしろ、落書きで花を咲かせてしまう生徒だ。けれど、その花は机の中でひっそりと咲いて、わたしの心を、すこしだけ慰めてくれる。


 一日が終わって、靴を履き替えるとき、ふと考えた。今日という時間は、雲のように消えたのか、黒板の跡のように残ったのか。答えは、まだ出せない。でも、曖昧なままのほうがいい気がする。はっきり残るものは、案外もろく壊れる。曖昧な記憶のほうが、ずっと長持ちすることもある。

 だから、わたしは今日も、曖昧に生きる。解を出さなくても、わたしはわたしのままで残っている。曖昧さこそ、わたしの証明なのだ。

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