第5話
朝のホームルームで配られたプリントを、わたしは折り鶴に仕立てていた。先生は、とくに注意しなかった。むしろ、気づいてすらいないのだろう。鶴になったプリントは、もはやただの紙切れではなく、飛べない鳥の象徴になった。
試験範囲のお知らせが、机の上で羽ばたきの練習をしているのは、なんとも皮肉だ。飛びたくないわたしと、飛べないプリントの、現状維持を肯定する即席のコンビ。これ以上に平和な共犯関係はないだろう。
午前中の授業は、国語、英語、数学と続いた。眠気はこっそり忍び寄る泥棒のようで、気づけばわたしの意識を半分ほど盗んでいった。
英語の教科書には、『freedom』という単語が踊っていた。自由といえば格好いいけれど、授業中に机に突っ伏す自由は、あまり褒められたものではない。自由とは、許されることではなく、叱られる覚悟を持つことなのかもしれない。
先生が「そこ、ちゃんと聞きなさい」と、視線を投げてきたとき、わたしは覚悟をもって顔を上げた。自由は、責任と同義語である。
午後の体育は、体育館でバスケットボールだった。わたしは、パスを回す役になった。シュートを決めるより、誰かにボールを預けるほうが性に合っている。
パスとは、責任の委譲だ。わたしは自分の不器用さを知っているから、あっさりと他人に渡す。けれど、その行為は卑怯ではなく、むしろ信頼の一種だと思っている。誰かに委ねる勇気。そうやって一周して戻ってきたボールを、また誰かに送る。
人生も、そんな連鎖でできているのかもしれない。誰かに預け、誰かに託され、誰かに返す。ゴールが決まったとき、歓声はチーム全体を包む。わたしの名前は呼ばれなかったけれど、それもまた心地よかった。
放課後は、図書室に寄った。静かな空間には、本の放つ独特の匂いが満ちている。本棚を眺めていると、背表紙の文字がみんなこっちを見ている気がした。いつか、誰かに読まれることを待っている、そんな視線。誰かの手に取られ読まれる本と、読まないまま時間に埋もれていく本たち。
人間も、似ている。きっと、誰かに呼ばれ、開かれる瞬間を待っている。ページをめくることは、他人の心をめくることに似ているのかもしれない。
わたしは、目についた哲学の入門書を手に取った。難解な文章が並んでいたけれど、論理的な構造や意味を理解することを諦め、あまり日常では耳にしないような言葉の、なにか奇妙な響きや、なんとなく素敵な言い回しに注意を向ける。
すると、それはわたしのノートに描かれた猫の落書きと同じように、不確かさや、難解さそのものが可愛らしく見えてくる。
読めなくても、持ち歩くだけで、すこし賢そうに見える。そういった副次的な効用も、悪くない。
帰り道、駅前のベンチに腰かけて、オレンジジュースを飲んだ。隣には知らないおばあさんが座っていて、スーパーの袋をぎゅっと握っていた。視線は交わさなかったけれど、袋の中には夕飯の材料が入っているのだろうと想像した。
おばあさんの家のキッチン、まな板の音、湯気の立つ鍋。湯気は窓ガラスを曇らせ、庭の景色をぼんやりと滲ませている。もうすぐできる温かいもつ鍋が、疲れた身体をやさしく温めてくれるだろう。それらを想像することで、わたしは一瞬だけ、"他人の生活"を借りて味わうことができるのだ。
他人を想像するというのは、言ってしまえば、やさしさの練習だろう。現実には、あまり他人と言葉を交わさなくても、心の中では、一日にたくさんの人と、何度も会話している。わたしは今日も、勝手に誰かと会話を重ねて、すこしだけ、やさしい人間になれるのだ。
夜、自分の部屋で机に向かうと、ノートを開き、テスト範囲を眺める。鶴から本来の姿に戻ったプリントは、ちゃんと四角いままで存在していた。四角いものを、四角いままで受け止めるのは、難しい。人は、どうしても角を丸めたくなるものだ。
だからわたしは、今日も端っこにちいさな丸を描いた。それだけで、世界がすこし、やわらかく見える気がした。