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第34話

 旧校舎の廊下の端に置かれた掲示板を、わたしは眺めていた。木枠に収められたガラスはところどころ曇っていて、貼られた紙をすこし歪ませて見せていた。

 紙に書かれているのは『生徒会からのお知らせ』や『文化祭の準備について』といった文言ばかりで、鮮度を失ったものも混じっている。期限を過ぎた紙は、用を果たさないどころか、逆に強く目に残る。過去の情報は、未来よりも鮮明にそこにある。

 ひとつのポスターに画鋲が三つ打たれていた。赤と青と白。色を揃えることもできたのに、誰かが気まぐれで違う色を選んだのだろう。規則を外れたその配色が、かえって整然と並ぶ他の掲示物よりも目を惹いた。

 人の注意は、秩序そのものよりも、秩序の綻びに向かう。完璧な均衡には静寂が宿るけれど、不均衡には生命が宿るのだ。美しさは、整然とした調和の中にではなく、その調和からわずかに逸れた「ずれ」の中に生まれるものなのかもしれない。

 掲示板には、画鋲の跡が無数に残っていた。紙を留めていたはずの穴は、もう何も支えていない。それなのに、なおそこに在る。ちいさな点々が、不規則な間隔で散らばり、よく見ると星座のようにも、古代の点字のようにも見える。誰かが意味を込めたわけではないのに、見る者が勝手に意味を読み取ってしまう。人間の目とは、そういうふうにできているのだろう。意味は書かれるものではなく、残された痕跡から勝手に、認識した者の内から立ち上がるものなのだ。無数の掲示が剥がされて消え去っても、穴だけは残り続けていて、貼られたことよりも、剥がされたことによって満たされている。新しい紙が加わるたびに古い紙が剥がされ、また新しい跡が刻まれる。そうしてすこしずつ、「掲示」という行為そのものが削り取られていく。時間とは、掲示板に新しい情報を増やすことではなく、そこに穴をひとつずつ増やしていく作業なのかもしれない。満ちることで世界が構築されるのではなく、欠けていくことで輪郭が浮かび上がる。存在とは、そこに何かが「ある」ことではなく、「あった」ことの記録なのだ。

 ガラスに映り込んだ自分の姿を、ふと見た。掲示板の曇った表面に、背後の廊下と重なった自分がぼんやり映り込み、境界が曖昧になる。実体と影の区別が失われ、まるでわたし自身も掲示物のひとつであるかのように感じた。貼られては剥がされ、残るのはただの跡。もしかすると、掲示板に貼られた紙の一枚一枚にも、誰かの姿が薄く透けて映っているのかもしれない。情報は無名であっても、その背後には必ず「誰か」がいる。匿名とは、姿を消すことではなく、姿を拡散させることであって、ひとりの名を薄めることで、かえって無数の人間の輪郭がそこに宿る。

 そのとき、廊下の奥から足音が近づいてきた。

 友人が肩に鞄を掛けたまま、わたしの視線の先を覗き込む。

「そんなに掲示板、面白い?」と、彼女はすこし呆れたように笑った。

 わたしは、軽く肩をすくめて答えた。

「面白いというより、なんか……、逃れられない感じ、かな」

「逃れられない?」

「うん。見てると、世界中がこんなふうにできている気がする。剥がされた跡とか、忘れられた情報とかで」

「ふうん?」

 そう言ったあと、友人はしばらく黙って、それからたのしそうにちいさく笑った。

 その笑い声が廊下に反響して、薄く貼り付き、まるで音までが掲示されているみたいだった。誰かが通り過ぎれば風に揺れ、やがて剥がれ落ちていくかもしれないけれど、その一瞬だけは確かに、ここに存在していた。

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