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第33話

 学校に着いて最初に通るのは、昇降口、そして下駄箱だ。教室よりも前に、ここで一日の儀式が行われる。靴を脱ぎ、上履きに履き替える。ただそれだけの所作なのに、毎朝欠かせない。下駄箱は、校内への関所みたいなものだ。

 並んだ下駄箱はちいさなアパートの集合ポストのようで、ひとつひとつに名前が刻まれている。わたしの区画は、上から三段目。扉を開けると、昨日脱ぎ捨てた上履きがまだ眠そうな顔で待っている。靴に顔があるなら、あくびでもしていそうだ。昨日の埃をまとったまま、彼らは何も語らずに、わたしの足が戻ってくるのを知っていたかのように、ただ静かにそこにいる。

 朝の下駄箱には、人それぞれの生活が垣間見える。新品の白いスニーカーが眩しい子もいれば、踵がすり減って色がくすんだ靴を履く子もいる。外の世界の歩き方が、靴底に刻まれて持ち込まれてくる。下駄箱は、人生の足跡の展示場だ。そこには、放課後の雨の日や、帰り道の寄り道、あるいは誰かと一緒に歩いた時間の粒子が、目に見えない層となって積もっている。

 靴を脱ぐと、足がほっとする。外の道を歩いてきた緊張が解けて、校舎に身体を預けられるような気がする。上履きを履いた瞬間、わたしはただの街の住人から、校内の女子高生に切り替わる。靴ひとつでアイデンティティが変わるのだ。

 下駄箱の前で、友人が「昨日の数学、やばくなかった?」と話しかけてきた。まだ教室に入る前なのに、もう会話は始まる。下駄箱は情報の中継所でもある。連絡網のように、昨日の噂や今日の予定がここで交換されていく。

 ふと、誰かの下駄箱に、ちいさな手紙が差し込まれているのを見つける。色つきの封筒。おそらくラブレターだろう。靴の匂いと一緒に愛の言葉を保存しておくというのは、なんとも大胆な文化だと思う。だけど、考えてみれば、恋はいつだって華やかな場所よりも、日常のすき間にこそ存在するものなのかもしれない。おしゃれな場所ではなく、下駄箱にだって花は咲くだろう。

 わたし自身の下駄箱には、何も入っていない。ただ上履きとローファーの交代劇が、日々繰り返されるだけだ。けれど時々、もしここに誰かからの手紙が入っていたら、と想像する。そんな妄想をしている自分を笑いながらも、扉を開ける瞬間には、ほんのすこし意識してしまったりする。

 靴を履き替え、鞄を肩に掛け直す。下駄箱を出ると、校舎の空気が一段と濃くなる。ここを通過した瞬間、わたしは完全に、学校の住人に変わっていた。下駄箱とは、通過点でありながら人格のスイッチでもある。外でのわたしと、学校でのわたしは、同じ身体に住みながら、異なる時間の中を生きている。

 振り返ると、まだ何人かが靴を履き替えていた。しゃがみ込んで紐を結ぶ子、寝ぼけた顔でぼんやり立ち尽くす子、友達と笑い合う子。ひとつひとつの動作が、朝の校舎を満たすリズムを生み出している。金属の扉の音、床をこするゴム底の音、微かな笑い声。それらが溶け合って、まるで静かな交響曲のように響いている。わたしもその中の一音として、今日の一日を始めていく。

 外の光が昇降口のガラス戸を透かして入り、床に斜めの帯を描いていた。その光の中を通り抜けながら、わたしはふと、自分が「毎朝ここを通っている」という事実を新鮮に感じた。

 昨日とも明日とも違う「今日の朝」を、確かに生きているという感覚。それはほんの一瞬のことだったけれど、わたしの一日の始まりには、たしかにその瞬間の静けさが必要だった。

 そうして、またひとつの「わたし」が始まる。

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