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第32話

 昼下がりの図書室は、まるで世界の余白みたいに静かだった。

 廊下のざわめきも、窓の外の部活の声も、ここに入ると一気に紙のように薄くなる。音の輪郭が遠ざかり、世界そのものが一枚のページに圧縮されてしまったような気がした。ここでは、空気さえも文脈のように整っている。息を吸うことが、文の読点を打つ行為のように感じられた。

 わたしは机に座り、辞書を一冊開いた。開いた理由は特にない。辞書は、開かれるために存在しているものだ。だれかの手が触れるのを、無言のまま待っている。ページをめくるたび、紙の繊維がちいさく鳴り、長い眠りから覚めるように、言葉たちが一斉に光を浴びる。呼吸をするようにページがめくられ、閉じられた時間の中から、意味がゆっくりと浮上してくる。

 言葉は、幽霊に似ている。呼びかけられたときだけ、この世に姿を現す。そして、発された瞬間には、もう死にかけている。どんなに新しい言葉も、音になった次の瞬間には過去に属してしまう。だから、わたしたちは常に亡霊と会話している。思考もまた、沈黙の上に立つ墓標のようなものだ。

 指先が止まったのは『孤独』という項目だった。

 辞書は淡々と意味を列挙しているだけなのに、文字の並びはどこか寂しげに見えた。定義とは、言葉を檻に閉じ込める試みだけれど、檻の中の孤独は、もはや孤独ではない。誰かに説明されうる孤独は、すでに他者の存在を前提にしているのだから。

 孤独は寂しさの証拠だと多くの人が言うけれど、わたしは逆だと思う。

 孤独を自覚できるのは、誰かとつながっている証拠だ。完全にひとりなら、孤独という概念自体が生まれない。孤独を知ることができるのは、言葉をもって他者を想定できる存在だけだ。もし、誰もいない世界で言葉が生まれなかったとしたら、『孤独』という語もまた存在しないだろう。孤独は、ひとりの中に潜む複数性の証明なのだ。

 つまり、孤独を知る人は、すでに孤独ではない。

 辞書の中の『孤独』という語は、定義されるたびにわたしの思考から離れていく。意味は固定されると、同時に失われる。わたしの哲学は、辞書とすこし食い違っている。辞書は意味を記すけれど、わたしは沈黙に耳をすます。世界が言葉によって形づくられるのなら、その外側には、まだ言葉にならない世界がある。そこにこそ、ほんとうの孤独が、ひっそりと眠っている気がするのだ。

 机の反対側で、友人が小説を読んでいた。彼女の視線はページに釘づけで、わたしには気づかないふりをしている。けれど、ときどきページをめくる手が止まって、視線がこっちに流れてくる。その一瞬の揺らぎで、彼女の意識がわたしの方へ結ばれているのが分かる。わたしたちは言葉を交わさなくても、同じ部屋の空気で文をつくっていて、視線の往復は、無言の手紙だ。

 わたしはノートを取り出し、余白に『孤独』と大きく書いてみた。その横に、『こどく』とひらがなで書き添える。同じ言葉なのに、感じ方が変わる。漢字は硬くて冷たいけれど、ひらがなはやわらかくて幼い。文字の衣装が違うだけで、同じ意味がまるで別人になる。孤独は、服装を変えたふたりの人間に似ている。スーツ姿の孤独は哲学者で、パジャマ姿のこどくは居候だ。どちらも同じ部屋に住みながら、互いに相手の存在を見なかったふりをしている。

 わたしはその同居の光景を想像しながら、ノートの線を見つめた。文字とは、孤独の形見のようなものだ。人は誰かに届かない言葉を書くとき、はじめて自分を感じる。だから、わたしは書く。書くことでしか、自分の存在の輪郭を確かめられない。

 ふと、友人が机越しに顔を近づけてきた。覗き込む視線に、わたしはノートを閉じようとしたけれど、間に合わなかった。彼女は『孤独』という文字を見て、にやりと笑った。何も言わないのに、わたしの心を読み取ったふりをする。その笑いには、悪意よりも理解の予感があった。けれど、理解される予感は、理解された現実よりも、ずっと不安を呼ぶ。わたしはふいに、心の中に薄い膜が張られるのを感じた。読み取られたと思うと、逆に孤独感が強まる。不思議なことに、誰かに理解されかけると、わたしはかえって「わかってほしくない自分」を意識するのだ。

 孤独は、他人に触れられることで育つ植物かもしれない。

 触れられなければ枯れるけれど、触れられすぎると萎れる。適度な距離があってこそ、生き延びる。わたしたちは、言葉という温室の中で、それをどうにか育てている。孤独を失くすために言葉を使いながら、言葉を使うことでまた孤独を生み出す。その往復のなかでしか、生きられない。

 そのとき、窓の外から風が吹き込んで、ノートのページがばさばさとめくられた。閉じたはずの孤独の文字が、また目の前に現れる。風は、無言の編集者だ。閉じたページを勝手に開き、隠した言葉をさらけ出す。風に触れられると、わたしは人間の秘密なんて最初から存在しないのだと悟る。隠しても、紙の薄さ一枚分で暴かれる。

 秘密とは、いつも偶然に弱い。むしろ、偶然こそが真実を暴く手段なのだ。

 チャイムが鳴って、友人が立ち上がった。椅子の脚が床を擦る音が、静まり返った空間に細い線を引く。彼女は小説を閉じ、しばらくその表紙を撫でてから、わたしのノートに視線を落とし、何も言わずに笑ったまま出ていった。その笑顔は、翻訳不能だった。慰めなのか、からかいなのか、ただの習慣なのか、それともただの別れの挨拶なのか、わたしには判別がつかない。

 笑いというものは、意味を持つようでいて、意味の輪郭を溶かす。言葉よりも笑いのほうが、ずっと多義的だ。いや、もしかすると笑いは、意味の総体ではなく、意味の放棄なのかもしれない。言葉が、伝えるための行為なら、笑いは、伝わらなくてもいい、という合図なのだ。曖昧さに勝る言葉は、存在しない。言葉はつねに、沈黙の手前で立ち止まり、沈黙の外縁に立って、そこで息をするしかない。笑いとは、その沈黙に、もっとも近い行為なのだろう。

 わたしは机に残された余白を見つめた。ノートには『孤独』という字がまだ残っていたけれど、窓からの夕陽が差し込んで、影のかすれで文字がゆらいでいる。黒いはずの文字が赤く染まり、輪郭がにじんで、意味がすこしずつ溶けていく。紙の上の孤独は、もはや単語ではなく、ひとつの風景になっていた。光に照らされると、孤独は意外と華やかだった。誰もいない部屋に射し込む光の粒が、沈黙の空気を金色に染めるように。

 孤独は悲しみの形式ではなく、世界との接続のしかたなのかもしれない。誰もいない場所で、世界そのものがこちらを見返してくる瞬間、それを、わたしたちは孤独と呼ぶ。

 そう思うと、わたしは孤独をよりいっそう好ましく感じた。人といる時間よりも、孤独の中で感じる他者の気配のほうが、ずっと確かなものに思えた。孤独とは、わたしの中に他人が残していった静かな跡なのだ。

 ノートを閉じて、ゆっくり立ち上がる。

 図書室の扉を押し開けると、廊下のざわめきが一気に耳を満たした。声と笑いと足音が混ざり合い、空気が厚みを取り戻す。

 世界が、再び意味を主張しはじめる。

 けれど、わたしのポケットには、まだちいさな静寂が残っていた。辞書で見つけた言葉と、余白に書いた文字と、友人の笑みと。それら全部が、わたしのポケットでゆるやかに反響していた。

 わたしはふと、振り返らずに微笑んだ。

 外の光が傾き、窓際の埃が金色にきらめいた。

 世界は、話しかけなくても、ちゃんと返事をしてくれる。

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