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第31話

 わたしの通う学校には、校庭の片隅に、ひとつの木製のベンチがある。ひっそりと佇むその姿を認識している生徒は、いったいどれだけいるのだろうか。色はすっかり褪せ、木目の境界も曖昧になっている。けれど、それが古びていると言えるのは、わたしがそれをかつて新しかったであろうという想像上のものと対比して見るからだ。世界の中に、古さというものはなく、ただ、記憶の中で時間が差異を作るにすぎない。木はただ、そこに在る。

 背もたれにはひびが走っている。ひびとは、壊れゆくことの兆しではなく、完全であるという想定がそもそも幻想だったという証拠だ。長く人に忘れられたのか、端の方は薄い苔に覆われ、そこだけはやけに静けさを漂わせていた。けれど、その苔のやわらかさは、まるで木の痛みを慰めるために生えた包帯のようにも見える。

 自然は破壊者であり、同時に看護師でもある。たとえば、そう言うこともできる。けれど、自然は語らない。語っているのは、常にわたしのほうなのだ。自然は沈黙しており、その沈黙こそが真理のかたちである。

 そっと腰を下ろすと、板がわずかに沈んだ。ぎしり、と古びた木の悲鳴のような音がして、釘の隙間からちいさな空気が漏れる。ものは壊れるときよりも、壊れかけのときに最も饒舌だ。崩壊の直前には、存在が自分の限界を語り始める。完全な沈黙と完全な崩壊のあいだ、その中間にこそ、もっとも人間的な声が宿る。永遠に耐えることも、あっけなく崩れることもできずに、ただ軋みながら続いていく音。それは、存在の呻きであり、生の証明だった。

 足もとを見やると、ベンチの下には落ち葉が積もっていた。風が吹くたびに、葉たちは擦れ合い、ちいさな合唱を奏でた。かさかさという音は、まるで過去の囁きのように、誰に届くともなく漂う。葉は枝から離れても、なお音を持つ。むしろ、切り離された後にこそ、独自の声を獲得するのかもしれない。ひとたび共同体から外れたものだけが、自分という比類のない楽器を奏で始める。別れとは、沈黙ではなく、新しい音楽の始まりなのかもしれない。

 板の表面を指でなぞると、古い刻み傷が指先に触れた。名前のイニシャル、重なったアルファベット、ちいさなハートマーク。誰かの衝動が、消えることを拒むように木に刻まれている。削られた線は、年月の中で色を失っても、意味だけはかすかに呼吸していた。かつてそこに座った人々の笑い声や沈黙が、木の繊維の奥でまだ眠っているようだった。ベンチは、ただ人を座らせるだけの道具ではない。そこに腰を下ろした誰かの時間、誰かの気持ち、誰かの衝動を、静かに保存しつづける記録装置なのだ。

 わたしたちはしばしば、記憶を頭の中にしまい込もうとする。だけれど、記憶はむしろ、外に刻まれるものなのだ。触れたもの、見たもの、座った場所、そうしたものたちが、わたしたちの代わりに覚えていてくれる。木のベンチも、その証人のひとつだ。幾度も季節を見送りながら、名も知らぬ人々の存在を、誰にも告げずに抱きしめている。

 もしこのベンチに心があるなら、きっと今も、風に揺られる落ち葉たちの歌を聴きながら、次の誰かが来るのを待っているのだろう。壊れかけの身体で、壊れることの美しさを学びながら。

 背もたれの上部には、雨粒が乾いた跡が斑点のように残っていた。大小さまざまな円が、まるで時間の呼吸の跡のように木の肌に散らばっている。乾くという行為は、消えることではなく、形を変えることだ。水は去っても、痕跡を残す。

 残るということは、もうそこにいない、ということの、別の言い方にすぎない。去ることと残ることは、案外、同じ動作の裏表なのだろう。消えるという現象は、実は別の形で現れるための準備運動なのかもしれない。

 世界のすべては、消えることで、より深く存在している。

 すこし離れた場所から眺めると、ベンチは校庭全体を背負っているように見えた。無人のまま、ただそこに在るだけで、休むという概念を体現している。誰も座っていなくても、ベンチは休息の形をしている。存在の姿が、すでに目的を語っている。座る人がいなくても、椅子は椅子であり続ける。

 役割を果たさなくても、存在は揺るがない。むしろ、役割を失ってからこそ、存在は純化する。目的を剥ぎ取られたものだけが、本来の形を露わにするのだ。わたしたちが意味を与える前から、世界はただ静かに、己の姿を保っている。意味は後から貼られる薄い皮膜のようなもので、剥がれても、その下の木目はなにも変わらないのである。

 ベンチの横には、小さな雑草が生えていた。板の隙間から伸びてきたその緑は、背もたれに寄り添うように立っている。風に揺れながら、木の表面にちいさく触れるたび、草は自分の居場所を確かめているようだった。人がだれも寄りかからないかわりに、草が背もたれを使っている。人が去ったあと、世界は空白を埋めるように、新しい関係を結ぶのだろう。役割は奪われるのではなく、移動し、分け与えられる。何かが終わるたびに、別のものが引き継ぎ、世界の形は更新されていく。

 ふと空を見上げると、校庭のフェンス越しに白い雲が流れていた。雲はどの方向にも属さず、ただ流れていく。座ってそれを見つめることで、わたしはようやく、時間を見ていることに気づく。動くものを見るためには、自分が動かないことが必要だ。静止は観察のための条件であり、沈黙は理解のための前提だ。動かないことで、動いているものが浮かび上がる。世界を見つめるとは、世界から半歩退くことなのだろう。

 立ち上がると、板の沈みがゆっくりと元に戻った。その動きは、まるでわたしがそこにいたという事実を否定するかのようだった。けれど、否定の中にも痕跡は残る。さっきまであった温もりは、確かにまだそこに漂っていた。木は人の重みを忘れない。忘れないというより、記憶と区別がつかないほど、曖昧に保持する。

 校庭を後にするとき、背後に残したベンチは、誰もいないのに確かに「座っている」という姿勢を保っていた。人間がいなくても、椅子は座り続ける。何かを待っているようで、実際には何も待っていない。世界は常に、待っているように見えるだけで、本当は、ただ続いている。存在とは、空のまま続ける行為のことなのだろう。

 そこに、誰かが座る可能性があるかぎり、ベンチは椅子であり続ける。可能性そのものが、存在の形を保つ。存在は行為ではなく、行為の余地なのだ。

 風が吹き、葉が擦れ、空が流れていく。

 すべてが去り、すべてが残る。

 世界は、絶えず、在りながら変わることの反復でできている。

 沈黙の中で、世界は形を変えながら、静かに呼吸している。

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