第3話
放課後の帰り道に、家の近くのコンビニに入ると、照明がやけに眩しかった。昼間の太陽とは違って、人工の光は、正しく照らすことにやる気を出しすぎている。
棚に並んだおにぎりや菓子パンが、星座のように配置されているのを見て、ここは小宇宙だと思った。わたしは、オリオン座の一等星の代わりにツナマヨを探し、流れ星の代わりにレジ横の唐揚げを眺める。願い事は、特にしなかった。
友人に、「アイス買わない?」と訊かれたわたしは、「寒いからやめとく」と答えた。
実際には寒さのせいではなく、今日は財布の中に小銭しかなかったからだ。言い訳は、宇宙を回すための潤滑油。ほんとうの理由は、だいたい摩擦熱で燃えてしまう。
レジに並ぶと、前の人が公共料金を支払っていた。制服姿のわたしたちのすぐ前で、現実の大人が現実的な支払いをしている。その背中を見ていると、未来がすでに行列の先にあるみたいで、逃げられない感じがした。
わたしはその未来から目をそらすように、手に持ったカステラだけを見つめた。ふわふわで、現実感がない。だからこそ、選んだのかもしれない。
順番が回ってきて、レジにわたしがカステラを置くと、店員が「温めますか」と訊ねてきた。わたしは、首を横に振った。というか、カステラを温めるという選択肢があることに驚いた。
温めたカステラは、果たしてカステラのままなのだろうか。
たとえば、わたしの場合、体育の前と体育の後は別人だ。汗で髪が貼りつき、息は上がり、別の動物みたいになる。その要因が熱であり、もし、熱が本性を変えてしまうのなら、食品も人間と同じで、常温と加熱後とでアイデンティティが揺らぐかもしれない。
つまり、熱が加えられる前のカステラと熱が加えられた後のカステラは別人、いや別テラになっているかもしれないのだ。
そして、友人は、レジでチョコアイスを買った。
外に出ると、彼女は「ちょっと持ってみる?」と、アイスを差し出してきた。なんとなくわたしは受け取って、その冷たさに肩をすくめた。ほんの少し持っただけで、手の中がひんやりして、指先から心臓まで、冷たい河が流れていく気がした。わたしは「やっぱり無理」と言って、彼女に返した。
冷たさに弱いわたしは、実は熱さにも弱い。つまり、どっちに転んでも、わたしは弱い。
歩きながら、当たり前のように手を繋いできた友人が、「明日の小テストどうする?」と聞いてきた。わたしは「今夜勉強する」と即答したけれど、その瞬間、自分の口の中で、嘘がスイーツみたいに溶けた。甘いけれど、後味が悪い。
ほんとうは、家に帰ったら寝転がって動画を見て、気づけば朝になっている未来のほうが可能性として濃厚だ。未来は、勉強よりも睡眠と怠惰に偏っている。重力と同じで、下へ下へと引っ張ってくる。
コンビニの袋を手にぶら下げて歩くと、袋の中でカステラが揺れた。宇宙の惑星みたいに揺れながらも、袋から落ちないのは、取っ手が重力の代わりをしているからだ。
袋は小さな宇宙船で、カステラはその乗客。わたしが家に着くまでの旅路を守っている。袋の薄さは心もとなくても、案外頼もしい。人間の関係も、それに似ている。薄い膜みたいな信頼でつながっていて、その割に意外と持ちこたえている。
家に帰ると、母がリビングでテレビを見ていた。わたしがカステラを取り出すと、「また甘いの買ってきたの?」と笑った。わたしは、「疲れたから」と答えた。本当は疲れたからではなく、甘さが好きだからなのだけど、好きという理由は弱すぎるから、わたしはだいたい別の理由をでっち上げる。
人は、弱さを直接言えない。だから、理由という防御壁を作るのだ。防御壁は嘘でできているのに、意外と頑丈だ。
夜、机に教科書を広げてみる。ページの上で、文字がちいさな軍隊のように整列している。でも、その軍隊はわたしを守る気がなく、逆に攻めてくる。単語帳は兵士、公式は武器。わたしは、降伏寸前の国だ。ペンを握った手が重たくて、戦う前からもう白旗を上げているようなものだ。
結局、数ページ読んで、ノートに『もう無理』とだけ書いて閉じた。わたしの勉強は、だいたいのところ、敗戦の記録で終わりを迎える。
ベッドに横になり、袋から最後のひと切れを出してカステラを食べた。甘さが舌に残って、頭の中のざわめきが、すこしだけ鎮まる。甘さは、一時的な平和条約。長続きはしないけれど、今日を終わらせるには、それで十分だ。
目を閉じると、コンビニの明るい光が、まぶたの裏に残像として浮かんだ。あのちいさな宇宙は、きっと明日も煌々と輝いている。わたしが行かなくても、誰かが星座を買っていく。
宇宙は回り続け、わたしはその一角で、明日の小テストという隕石の落下を待っている、ただの弱い人間でしかない。