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第29話

 わたしは、美術室の窓際に腰を下ろしていた。放課後の光が、まだ机の上に残る色鉛筆を、ゆっくりと照らしていた。赤、青、黄。色の名前は単純なのに、鉛筆の軸にまとわりついた色は、ひとつとして同じではない。物に顔はないけれど、物は確かに表情を持っている。使われ方、削られ方、折れた回数、そのすべてが、その一本が持つ固有の表情になっていた。

 机の端に転がった削りカスをつまむと、薄い木の巻きが指に絡みついた。カールした木片は、ちいさな螺旋階段のように見えた。階段の先には何もないけれど、何かに向かって上っている気配だけはある。意味のない形が意味を宿す瞬間を、わたしは想像と呼んでいる。そして想像は、わたしに意義を与えてくれるのだ。

 教室の隅には、誰かが描きかけたキャンバスが立てかけてあった。人物画らしいが、顔の部分だけがまだ空白のままだった。輪郭はあるのに、目も口もない。なのに、空白は不気味ではなく、むしろ期待のように感じられた。完成していないからこそ、見る者の頭の中に、勝手に表情が浮かぶ。わたしは未完成を埋めるように、さまざまな想像をした。完成よりも未完成のほうが、かえって多くの表情を持っている。

 机の引き出しを開けると、ちいさなスケッチブックが出てきた。誰のものかは、分からない。ぱらぱらとめくると、落書きのような線と、本気で描かれた絵とが混ざっていた。線は稚拙でも、そこに描かれた気分だけは、なんとなく伝わってきた。上手い下手は関係なくて、描かれたその瞬間の衝動が、なにかを伝えてくる。一度しかない、その瞬間の、その感情の凝縮。絵とは、技術ではなく、痕跡だと思う。


 窓から差し込む夕陽が、机の上に長い影を落とした。色鉛筆の影は、鉛筆よりも鮮やかに見える気がした。影は色を持たないのに、色の本質を映す。無色が、有色を語る。

 ふいにドアが開いて、後輩らしい女子が入ってきた。

 わたしに気づくと、すこし驚いた表情を見せた。

「すみません、忘れ物……」と、ちいさな声を残して、机の上から消しゴムを取っていった。

 その声が消えたあと、部屋にはまた静けさが戻った。

 残された静けさの中で、わたしは机に広がる削りカスを集め、手のひらに載せた。軽い木片が、呼吸でかすかに揺れる。ちいさなカールの束が、まるで言葉の切れ端のように見えた。発されなかった言葉は、こんなふうに机の隅に残っているのかもしれない。

 静けさが訪れるたびに、世界の輪郭が浮かび上がる。

 音は世界を満たすけれど、沈黙は世界を映しだす。

 わたしは、席を立った。

 美術室を出てドアを閉めると、外の廊下は明るく、声で満ちていた。わたしは、沈黙を背負ったまま、その喧噪の中に足を踏み入れた。

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