第28話
校外学習という名の遠足の日の朝は、ふだんよりも電車がうるさく感じた。
制服の集団が一両を占拠し、リュックのファスナーが一斉に笑っているようだ。誰かの笑い声が響くと、それが呼び水になって別の笑いが膨らみ、波紋のように車内を伝っていく。まるで、ひとつの巨大な身体が笑っているみたいだった。笑いにも集団にも中心はなく、ただ広がるだけで、そこにいる人間はそれぞれが部品に変わる。
わたしもその中に混ざっていたけれど、笑いのリズムに合わせて身体を揺らすことはできなかった。リズム音痴な生き物は、集団の中で常に浮いている。そして、浮いているのに、どうやら沈む場所も見当たらない。わたしは、なにか興味深いものでも観察するかように、どうでもいい窓の外のビルばかり眺めていた。
集合場所に着くと、先生の声がマイクを通じて拡散した。けれどマイクは、声を大きくする代わりに、意味をちいさくしてしまう装置だ。大切なことほどノイズに埋もれてしまい、わたしは「とにかく歩け」という結論だけを拾った。つまり、遠足とは長距離の誤解である。
歩き出すと、友人が当然のように腕をからめてきた。望んでもいないのに、半ば強制的に二人三脚である。彼女の胸がわたしの腕に押しつけられ、まるで寄付を強いられているような気分になる。やさしさというものは、相手の都合によってはただの圧力に変わってしまうように、密着は親しさだと誤解されがちだけれど、わたしには、攻撃された個人の境界がすり潰される音が聞こえる。
道端の雑草が、風に揺れていた。誰に頼まれたわけでもなく、誰に謝る必要もなく、勝手に揺れている。自由とは、雑草の別名かもしれない。揺れることを止められず、止められないことを罰されない生命。
ふと、わたしも雑草のように、進行方向から勝手に逸れてみたくなった。列の流れを横断して、好きな方向へ踏み出すだけでいいはずなのに、そのたった一歩がいちばん難しい。残念ながら、わたしのような人間は、雑草に憧れながらも、アスファルトの秩序に従って歩くことしかできない。
目的地の公園に着くと、芝生の上にシートを広げた。わたしのお弁当は、母の手作りのいつもの形で、卵焼きはやはり四角かった。友人の弁当には、またもやハート型の卵焼きが鎮座していた。四角とハートが隣り合うと、まるで幾何学の教材みたいだ。図形に感情を持たせると、弁当が一気に文学になる。おかずの配置すら解釈の余地を持ち始め、昼食がそのときだけ物語になる。
おかずを交換しながら食べ終えると、顔を上げた青空がやけに大きく見えた。わたしの内側の余白の量によって、縮んだり膨らんだりするようだ。
いま目の前にある空は、わたしを丸ごと包めるほど膨張していた。果てしなく広がっている、という壮大な真実を前にすると、わたしという存在の矮小さが、輪郭線ごと薄くなってしまう。
空の規模に対して、わたしは塵のような比率しかもたない。
そこにあるのは、ひらきなおりに似た無力感。
それなのに、不思議と息苦しさはなく、わたしという点が宇宙の片隅に置かれているだけ、というこの状態が、なぜか清涼感に似た解放として胸に収まる。
この経験は、絶望的であると同時に、どこかすがすがしいと感じた。
友人が寝転がりながら、「雲が犬みたい」と言った。
わたしには、ただの曖昧な綿あめにしか見えなかった。
犬か綿あめか、同じものを見て、違う名前を与える。視点の数だけ別形態を持つのだと思い知らされながら、答えのないクイズを共有することで、わたしたちは笑い合った。
雲は、犬でも綿あめでもいい。どちらかが正しく、どちらかが間違いというわけでもない。
ただ、同じ空の下で、別の世界を見ているという事実だけが、わたしたちをゆるく繋いでくれていた。
そこには、説明という名前の鎖も、役割という名の枠線も、なにもいらないのである。
帰り道、列の中で歩きながら、靴の中に小石が入り込んだようだった。痛いほどではないけれど、気になる存在。だいたいのことは、大きな苦痛よりも、ちいさな異物の方が長くつきまとってくるのだ。
わたしは途中で立ち止まり、小石を取り出した。てのひらの上で光るそれは、ただの灰色の破片だった。けれど、わたしにとっては、今日という遠足の証拠品とも言える。ちいさな石ころを、わたしはそっとポケットに落としこんだ。
夕方、電車で学校に戻るころ、友人はまた眠っていた。わたしの肩に重みを預け、無防備な寝顔をさらしている。窓の外には、沈みかけの太陽。彼女の髪に赤い光が差し込み、まるで夕焼けそのものが眠っているようだった。わたしはその光景を、一日の句読点として、静かに受け止めた。




