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第25話

 休日の朝は、学校のチャイムが鳴らないぶんだけ、静かだった。

 静けさは、贅沢品である。ふだんは教室のざわめきに紛れて忘れているけれど、いざ与えられると、どう扱っていいのか分からない。新品のノートを開いたときに最初の一文字をためらうみたいな、あのちょっとした緊張感に似ている。

 わたしの一日は、まだ書き出しの空白にとどまっていた。

 カーテンを開けると、外は雨だった。粒の大きさが不揃いで、窓ガラスを叩くリズムがばらばらに響いている。まるで、練習不足のオーケストラだ。指揮者がいないぶんだけ自由で、でもどこか不器用。拍が揃わないせいで和音にならず、だけどそれゆえに反復できない一期一会の響きが、なぜか耳に残る。

 予測不可能で、でもだからこそ、うつくしい。

 思えば、完璧さというものは、人間が望んで設計した形式にすぎないのかもしれない。山も、海も、風も、波も、誰かの許可を得て動いているわけじゃない。世界はいつだって、ノイズまみれで、だからこそ生々しい。

 もし人類が消えた後にも、世界が音楽を続けているとしたら、そこに残るのは、きっとこんな音なのだろう。評価されるための演奏でもなく、整列を求められる合奏でもない。誰の意図も介入していない、ただ、存在そのものが鳴らしてしまうリズム。

 窓を伝う雫が、線を描きながら落ちるのをぼんやり眺めながら、わたしはふと思った。こうして聴き続けていれば、いずれこの静けさにも使い方が見つかるのだろうか。それとも、見つからないままでもいいのだろうか。あるいは、見つからないほうがいいのだろうか。そんな問いすら、雨音に溶けていった。


 ベッドに寝転んで、スマホを眺める。すると、友人から『今日ひま?』とだけ書かれたメッセージが届いていた。返事をしようか迷ったけれど、すでに彼女が家の前に来ている可能性を考えて、スマホを置いた。

 彼女はだいたい、わたしの想像より速い。電波よりも、勝手に押しかける足のほうが先行しているタイプだ。

 わたしの予感は当たり、チャイムが鳴った。

 玄関のドアを開けると、傘をたたんだ友人が立っていた。制服ではなく私服で、スウェットの袖口からのぞく手首が、すこし冷たい色をしている。前髪の先だけが雨に濡れていて、ここまでの距離の証拠みたいにきらきらしていた。

 彼女は靴を脱ぐのも最小限の動作で済ませ、当然のようにわたしの部屋へ上がり込む。滞在許可は申請制ではなく、占拠制らしい。まるで自身の部屋のような足取りでベッドへ向かい、先に座り込む。

 やれやれと思いながらわたしも座ると、彼女はまたもやわたしの身体に顔を埋めてきた。背中に抱きつくでも、肩に寄りかかるでもなく、真正面から沈み込む。タオルよりも使い勝手が良い、とでも思っているのだろうか。

 笑いながら、彼女はぽつりと言う。

「……あったかい」

 その一言が、胸の内側のスイッチを押していく。

 言葉は、こころのストーブの電源ボタンだ。押されると、こちらの意思とは無関係に、勝手に暖かくなる。灯油の残量確認さえ省略して、強制的に点火されてしまう。

 自分用ではなく、誰かのために点く暖房。それは案外、ひとりでは思い出せない体温だった。

 雨音を背景に、ふたりでベッドに座っていると、部屋の空気がやけに狭く感じた。窓の外で降りしきる雨が境界線となって、外界を遠ざける。世界のほとんどが切り落とされた結果、この部屋だけが独立したちいさな孤島になったみたいだった。

 孤島は、ひとりでは寂しい。けれど、ふたりで分け合うと、無人島ゲームに変わる。不便もなければ危機もないくせに、なぜかたのしい。誰もサバイバルなどしていないけれど、ふたりで取り残されている、という設定だけが成立している。

 わたしは、机の上に置いてあった未読の本を手に取った。ページをめくると、紙の匂いが立ちのぼる。雨の匂いと混じって、部屋は即席の図書館になった。

 友人は本を覗き込みながら、「何の本?」と訊ねる代わりに、わたしの肩に頭をのせた。言葉を挟むより、体温のほうが先にやって来る。

 彼女の髪先から落ちた水滴が、わたしの服にちいさな丸い染みをつくる。ひとつ、またひとつ。消えてなくなるには、まだ時間がかかりそうなその染みは、証拠品のように残る。友情という名の、しつこい指紋だ。

 わたしはページをめくりながら、ここが、いま世界で最も解像度の高い空間になっていることを、静かに受け入れた。


 昼過ぎ、雨が弱まった。窓を開けると、雲の隙間から斜めの光が落ちていた。濡れたアスファルトがそれを受けて、鏡のようにきらきらと街を映し返す。道路もビルの壁も輪郭がやわらかく光って、街が大きなシャボン玉になったみたいだった。触れれば一瞬で壊れてしまうのに、壊れるまでのわずかな時間だけは、何よりも透明で、手の届く範囲すべてがひとつの宝石箱みたいに見える。

 割れやすいけれど、うつくしい。わたしたちも、そういう時間の中に座っている。

 壊れることを知っている時間ほど、なぜか静かにあたたかくなる。

 結局、友人は夕方まで居座った。ゲームもしていないし、勉強もしていないし、特別な会話をしたわけでもない。けれど、何となく彼女という存在がそこに居続けた時間だけが、濃く積もっていた。

 玄関で靴を履き終えると、彼女は「また来るね」と笑って、最後の一回、わたしの身体に顔を押しつけてきた。別れの挨拶というより、名残惜しさの刻印みたいな、タオル扱いではない確認のタッチだった。

 ほんとうは「やめてほしい」と言えるはずなのに、どうしてか、言葉が喉の奥でまるくなって消えてしまう。押し返す代わりに受け止めてしまうのは、わたしの弱さではなく、たぶん習慣だ。あるいは、もうそれが今日の句点であることを、身体が理解してしまっているから。

 文章は終わりを迎えると、また次の行が始まる。友人との関係も、きっとそんなふうに続いていくのだろう。

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