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第23話

 授業が終わって誰もいない理科室は、薬品の匂いがかすかに残っている。わたしは窓際に立ち、ひとりで室内を眺めていた。

 ガラスのビーカーや試験管が光を反射し、窓から差す午後の光を砕いている。その光と影は、空間の静寂さを浮き彫りにし、静物を飾りたてるよりも、静物の孤独さを際立たせているように見えた。

 わたしは、黒板の端に貼られた元素周期表を眺めた。整然と並ぶ記号の群れは、世界の秩序を誇示しているように見えるけれど、そのひとつひとつは、ただの記号にすぎない。意味を与えられなければ、文字と同じく無機質だ。並べるという行為によって、はじめてそれらは体系となる。秩序というものは、発見されるものではなく、仕立てられるものなのかもしれない。

 棚の上に置かれたフラスコには、実験で使った水溶液がわずかに残っていた。透明なのに、底のほうは薄く黄色く濁っている。ほんの僅かな沈殿でも、透明さの奥に別の相を潜ませる。それは、何かが変わってしまったという事実の証拠であり、きっと、なんらかの反応の名残だろう。静止して見える液体の表面も、見えないところでは粒子がまだ揺らめいているかもしれない。見た目は穏やかでも、中身はすでに変質している。

 わたしたちもきっと同じで、外からは静かに見えても、内側では昨日と違う反応が進んでいる。変化は表面よりも、見えない奥で起きる。目に映らないところで、元の構造はゆっくりと組み替えられ、気づいたときには別の性質を帯びている。わたしたちは、それを成長と呼んだり、揺らぎと呼んだりするけれど、本当はただ、不可逆の方向へ進んでいくちいさな反応の連続にすぎないのかもしれない。

 わたしは、わたしの変化の瞬間を目撃できない。波打ち際の砂が濡れていくように、その境目は永遠に曖昧なままなのだ。きっと、真正面から受け止めれば崩れてしまうものだから、わたしは、変わるという現象を、わずかに目を細めることでしか眺められないのだ。

 窓をすこし開けると、外の風が吹き込んだ。机の上に積まれたプリントがふわりと浮き、床に散らばった。わたしは、それらを拾い集めながら思った。紙は軽いからこそ、風に翻弄される。だけれど、軽いものは、飛ぶこともできる。重いものは、地面に縛られる。だけれど、重いものほど、安定している。

 軽すぎれば居場所を失ってしまうし、重くなりすぎれば動けない。ちょうどいい中途半端さが、生き延びる術なのかもしれない。

 黒板のチョーク置きに、一本だけ折れたチョークが残っていた。半分になった白い棒をそっと手に取ると、表面に付いた粉が、雪の粒のように指先へ移った。折れたチョークは使いにくいけれど、それでも文字を描ける。線は少し頼りないかもしれないけれど、白はちゃんと白として現れる。完全でなくても、役割は果たせるのだ。むしろ不完全だからこそ、大事に使われることもある。

 教室の時計が、四時を告げた。金属的な音が響き渡り、その間だけ、誰もいない空間に現実が戻ってきたみたいだ。けれど音が消えると、再び静寂が降りる。今度の静寂は、さっきまでとはまるで別の種類のものだ。ひと度破られた静けさは、戻るときに厚みを増して、深い湖の底に沈むみたいに、耳の奥へと満ちていく。音の直後の沈黙は、音の直前よりも濃く感じられる。

 きっとそれは、境界を越えてしまったからだ。

 音と音のあいだにある、見えない深呼吸のようなもの。

 わたしは息を吸い込み、ゆっくり吐いた。

 呼吸の輪郭が、内側の世界と外側の世界をぴたりと合わせる。ひと呼吸ごとに、部屋がわたしをひとめぐりしているような気がする。

 静けさに包まれるというよりも、むしろ静けさそのものの器になってしまったような感覚。

 わたしの胸の奥を通り抜けた空気が、そのままこの教室全体をかたどっている。

 そう思えるほど、世界はいま、細やかで、壊れやすくて、そして、ゆるぎなく確かだった。

 机に残った水滴を指でなぞると、冷たさが皮膚に移った。水は、触れられるたびに形を失うけれど、形を持たないからこそ、あらゆるものに寄り添い、境界を越えてゆける。やわらかさとは、強さなのだ。硬さは折れ、防御はひび割れる。けれど、やわらかさは残る。失うごとに溶けて広がり、別の姿で生き残る。

 荷物をまとめ、理科室を出ようとしたとき、ドアのガラスに外の夕焼けが映り込んでいた。赤と金の色がゆらぎ、透明なガラスにもう一枚の世界を重ねる。そこに映る自分の姿に夕焼けの朱が上書きされ、わたしがその色に染められていく。世界に触れるのではなく、世界のほうがこちらへと滲んで入ってくる。ただ、いまこの時間だけ開く、時限式境界装置。わたしはしばらくそこに留まり、空の色がゆっくり揺れるのを眺めてから、そっと扉を開いた。

 廊下へ一歩踏み出すと、空気が一段階ほど軽くなった。理科室に満ちていた微かな薬品の香りや、水音の残り香は、背後へと薄く流れ落ちていく。それでもわたしの指先には、まだ粉の白さが残っていた。消えやすいものほど、証拠になることがある。形はすぐに無くなるのに、触れた記憶だけが強く残る。指先の白は、今日ここにいたという確かな痕跡だった。

 痕跡はいずれ消えてゆくけれど、証明は内側に移る。わたしが見たもの、触れたもの、考えたこと、それらが、形の代わりに残り続ける。

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