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第22話

 朝の支度は、毎日同じはずなのに、どこかで微妙に違っている。髪の毛の跳ね方、シャツの皺の位置、スカートのファスナーのかたさ。制服に身を包むまでの数十分は、単なる作業であると同時に、今日という日を立ち上げる儀式でもある。

 まず、洗面台に向かう。鏡の中には、寝起きの名残をとじこめたような表情が映っている。まぶたはまだ重力に従っていて、口元は油断したまま閉じきれていない。視線を合わせると、そこにいるのが昨日のわたしであることを、なんとなく直感する。まだ、今日ではない存在。

 蛇口をひねり、両手で受けた水を顔に当てる。瞬間、皮膚がきゅっと引き締まり、世界がピントを取り戻す。冷たい水がこめかみを通って神経を駆け上がり、「はい、始まりますよ」とどこかでアナウンスされたような感覚になる。そうして、今日という時間は、ようやく始まり出すのだ。

 制服のシャツの袖に身体を通すと、布の冷たさが腕を撫でていき、すぐに体温を吸い取ってなじんでゆく。外側のものが内側へ移行し、わたしと生地の境界線がゆっくり曖昧になる。まるで、他者が自己に変換されていく瞬間を目撃しているみたいだった。

 衣服とは、外界と自分を繋ぐ橋であり、同化のプロセスそのものだ。まだ距離があるからこそ冷たく、馴染んだらそれは、わたしの一部になる。着替えるという行為は、自分の輪郭を再インストールする工程で、つまり今日の自分をもう一度名乗り直すための儀礼なのだ。

 スカートを履くと、腰の位置にちいさな違和感が走る。昨日はここまで短くなかったはずなのに、成長期の身体と既製品の制服との折り合いは、毎朝くり返されるちいさな戦争だ。どちらが敗北で、どちらが勝利なのかは、戦争地域による。

 鏡の前で一度、そっと回ってみる。布のプリーツがふわりと舞い、想定していなかった角度で可愛さが反射する。それが意外にうれしくて、思わず笑ってしまう。羞恥と満足は、いつもこの裾の境界で共存している。

 理性は「見せびらかすな」と囁き、感情は「ちょっと見せたい」と肩を押す。制服とは、ほぼ毎日ちがうわたしの許容量を測るバロメータだ。

 次に、髪を整える。寝癖で跳ね上がった一房が、どうしても言うことを聞かない。水で濡らしても、ドライヤを当てて押し戻しても、まるで自分の意志を持っているかのように主張して、反発力だけが強くなる。まるで独立国家を宣言しようとしているかのようだ。

 仕方なくピンで留めると、鏡の中の自分が一段階変化する。輪郭は同じなのに、印象だけが別人めいている。女子の髪型は、哲学の実験台だ。わずかな操作で、アイデンティティの外郭(がいかく)をすげ替えられてしまう。ほんの数センチの向きや留め方ひとつで、今日のわたしは別の人格を装って見える。

 化粧水をつけ、手のひらで頬を包むと、肌の温度がひとつ上がる。次にリップを軽くひく。ほんのすこし色が差すだけで、鏡の中の顔全体が、照明を当てられたように明るく変わる気がする。化粧というほど大げさなものではないのに、世界へ向けて表面を整えていく行為には、やはり身構えが含まれている。

 自分を商品として棚に並べるわけではないけれども、それでも、外側というものは評価されうるものだろう。外界はステージであり、制服は衣装であり、わたしは日替わりキャストとして毎朝そこに登場する。準備とはすなわち、今日の公演に出演するための、精神的スタンバイだ。

 鞄に、教科書を詰め込む。分厚いものから順に入れていくと、そのたびに重さが増し、入れるだけで荷重が現実になるのは、すこし理不尽で、どこか象徴的でもある。ノートやプリントが端から飛び出しそうになっていて、わたしは苦笑する。

 知識とは本来、風のように軽やかで、どこへでも持ち運べるもののはずなのに、学校では重量物として背負わされる。学問とは、わたしたちの内部に積まれていく情報ではなく、持ち運びに耐えるための体勢を、まず身体に覚えさせる儀式なのかもしれない。

 つまり、知を得るということは、思考よりも先に、重量への耐性を学ぶこと、とほぼ同義である。


 台所から、朝ごはんの匂いが漂ってくる。食パンの香ばしい匂いと、家族の足音。制服のボタンを留めながらその匂いを吸い込むと、日常がようやく現実として固まっていく。朝の支度は、自分の身体を整えるだけでなく、世界との関係を整える時間でもあった。

 鏡の前で、最後に全身の姿をチェックする。スカートの裾、髪の流れ、胸ポケットの校章。どれも昨日と変わらないはずなのに、わずかな角度の違いや光の当たり方ひとつで、まるで別人のように感じられる瞬間がある。"今日は、わたしがどう見えるか"が、そこに映っている。

 鏡は単なる反射面ではなく、存在の確認装置だ。わたしは毎朝、自分に対して『あなたは今日も高校生ですよ』と署名しているのだ。これは、身だしなみを整える動作であると同時に、社会的役割を再契約する手続きでもある。

 靴を履き、玄関のドアノブを握る。その瞬間に、わたしは"家のわたし"から"社会のわたし"に変わる。境界線はとても薄いのに、越えてしまえばもう後戻りはできない。誰も見ていないようでいて、すでに世界は観客として待ち構えている気がする。

 朝の支度は、単なる準備の終わりではなく、変身のプロセスだった。制服という衣装を身にまとったわたしは、また今日という舞台に立つ準備が整ったのだ。ドアの向こう側にあるのは日常であるはずなのに、ときどき、未知の劇場へ足を踏み入れる俳優のような心地がする。

 拍手も照明もないけれど、それでも開演の合図は、確かにここから始まる。

「よし、いこう」

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