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第20話

 雨の日の昇降口は、別世界の玄関のようだった。外から持ち込まれた傘のしずくが床を濡らし、靴底がそこに模様を描いていく。人の数だけ模様があって、それらはすぐに踏み荒らされ、滲んでいった。痕跡は消えるために生まれるのか、残るために生まれるのか。どちらにしても、わたしたちは、"いま"を通過した証拠を、無意識に、無造作に残している。

 空気はすこし湿っていて、どこか金属の匂いがした。鉄製の傘立てからは、滴が一定のリズムで落ちつづけている。外の世界は灰色で、水たまりの表面には空の模様が映り込み、風に揺れるたびに形を変える。見慣れた風景のはずなのに、雨の日には、すべてがすこし異世界めいて見える。色が溶け、音が曖昧になり、境界線がどこかへ消えていく。

 傘をたたんで、軽く振る。しずくが飛び散って、空気の中に透明な点を描いた。その映像が、一枚の写真のように静止して、しばらく記憶に残っていた。


 教室に入ると、窓ガラスを雨粒が叩いていた。外の景色は曇りガラスのようにぼやけ、建物や樹木が水彩画のように溶けて見えた。はっきり見えないからこそ、形が想像を呼び起こす。見えすぎると安心はするけれど、想像は働かない。今日の世界は、あえて曖昧になることで、意味を作らせているようだった。

 授業中、先生の声は天井に反射して広がり、雨音と混ざっていた。黒板に並ぶ数式のリズムと、窓の外の水滴のリズムがずれていて、それが逆に心地よかった。調和よりも不調和のほうが、集中を呼ぶときがある。

 わたしは文字を追いながら、同時に雨音を追っていた。先生の声が、いつもよりも遠くに聞こえている。音の粒が空間の中で跳ねて、それはまるで、数式では表せない旋律を感じさせる。理論と感覚がぶつかり合う場所で、わたしの意識は、すこしずつほどけていく気がした。


 昼休みになると、廊下に生徒たちの声があふれた。わたしは教室を出て、校内をふらふらと散歩する。そして、ふと昇降口の傘立ての前で立ち止まった。そこに一本、見慣れない傘があったのだ。

 透明なビニール傘に、マジックでちいさな星がいくつも描かれている。誰のものか分からなかったけれど、それを見ているだけで、すこし気持ちが軽くなった。描かれた星は本物よりも稚拙だけれど、だからこそ、安心できる。完璧な星空より、下手な落書きの星空のほうがやさしい。

 午後の授業が終わるころには、雨脚がさらに強まっていた。窓の外が白く霞み、校舎の向こうが見えなくなった。遮断された景色は、存在しないもののように思える。けれども、見えないからといって消えるわけではない。わたしの視界から外れただけで、世界は続いている。

 わたしの視界は、世界のごく一部の切り抜きに過ぎない。しかし、わたしのこの思考が及ぶ範囲は、世界の全体と等しい。わたしは、わたしの世界である。


 放課後、昇降口に戻ると、傘立ての傘がいくつか消えていた。けれど、透明の星空傘は、まだそこに残っていた。持ち主は、忘れたのか、それとも意図的に置いていったのか。

 傘を忘れるのは不便だけれど、誰かに見てもらうために置いていくなら、それは贈り物に近い。誰かがその傘を使うことになった場合、忘れた側は意図していなくても、結果的に贈与という形になるけれど、逆に、誰かに与えようと思って置いたとしても、誰も拾わなければ、それはただの忘れ物と見なされる。忘却と贈与は、境界が曖昧だ。

 傘を広げて校門を出ると、雨音がすぐ近くで、わたしを包み込んできた。傘を叩く音は、内側のわたしにしか聞こえない、それは、すてきな秘密の音楽だった。世界の雑音が消えて、雨粒とわたしだけの空間になる。透明な膜ひとつで、宇宙が仕切られる。その狭さが、むしろ安心で、なんだかたのしかった。

 家に着くまでの道、傘の中で考えていた。もし透明の星空傘を持ち帰ったら、わたしは誰かの一部を奪うことになるだろう。だけれども、奪うことは、受け取ることでもある。結局、所有というのは、どちらか一方では成立しない。二人でひとつの影を伸ばすように、所有は共有の言い換えに過ぎないのだろう。

 玄関で傘を畳むと、床にぽたぽたとしずくが落ちた。しずくはすぐに消えていったけれど、その短い時間に、確かに光を映していた。存在は、その短さによって証明される。長く残るものは、むしろ存在を疑わせるのだ。

 永遠よりも、刹那のほうが、まぶしい。終わりを知っているものほど、強く抱きしめようとする。まるで、手の中で壊れてゆく砂時計の粒を、こぼさぬように抱え込むように。

 部屋に入ると、雨音は遠ざかり、外の世界と切り離された。だけれど、どこかでまだ、透明の星空傘のイメージが残っていた。持ち主を知らないのに、なぜか親しさを感じる見知らぬ誰かの星空が、今日一日の中心になっていた。

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