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第16話

 朝の教室に入ると、まだ誰も来ていなかった。机と椅子だけが並んでいて、まるで生徒が欠席した世界の模型みたいだ。人間がいないだけで、教室はこんなにも、物静かに整っている。わたしは、自分がいかに騒音を持ち歩く生物なのかを、思い知らされる。存在とはつまり、迷惑の別名なのだろう。

 黒板に、昨日の数式が残っていた。誰かが消し忘れたのか、あるいは先生が、明日も使うから、と残したのか。どちらにせよ、そこにあるのは、"x"と"y"の孤独な会話である。

 わたしは、勝手に読み替えてみた。"x"はわたしで、"y"はあなた。二人は同じ平面上で、永遠に交わることなく、ただグラフの上でにらみ合っている。つまり、数式とは、恋愛の悲観的シミュレーションなのだ。そう考えると、昨日の授業は、意外とロマンチックだったのかもしれない。

 あのとき先生が「このグラフは無限に続く」と言ったとき、クラスの誰もがただノートを取っていたけれど、わたしだけは心のどこかで、それを比喩のように受け取っていた。

 無限に続く、けれど、決して交わらない。

 そんな関係が、この世界にはいくつも存在している。たとえば、教室の中で交わす何気ない会話。すぐ隣にいるのに、どこか遠くに感じる人。手を伸ばせば届きそうで、けれど指先が空を切る。

『y=ax+b』という直線の式の中で、"b"は切片、つまり距離なのだと気づいたとき、すこしだけ胸が痛くなった。わたしたちは、ちょうどその"b"のぶんだけ、世界の中でずれている。そのほんのすこしの誤差が、永遠のすれ違いを生む。


 窓際に立ち、外を眺めると、校庭の片隅に水たまりが光っていた。空の青さを反射しているのに、よく見ると、雲の形はすこし歪んでいた。

 世界を写すはずの鏡が歪むとき、むしろそこに、真実が混じっているような気がする。正しくないほうが、正しいことだってある。特定の基準で評価された通知表の数字より、衝動的に書き留めた落書きのほうが、その人の本質に近いように。

 真っすぐに見えるものほど、どこかが嘘をついている。歪みや曇り、影や反射の中にこそ、ほんとうの輪郭が潜んでいる。だから、あの水たまりが映す空が、完璧じゃなくてよかった。すこしだけ揺らいで、すこしだけ濁っていて、そこにこそ現実の重みがある。

 椅子に腰を下ろすと、背もたれが小さく軋んだ。

 わたしの存在を不満そうに告げるその音は、教室で生まれ落ちた最初の音楽になった。静かな空気のなかで、それはちいさな序章のように響く。音があるということは、まだこの世界に時間が流れているということだ。そう考えると、すこしだけ安心する。

 やがて、廊下の向こうから足音が近づいてくる。前奏のようなリズム、そして、扉が開く音。そこに現れたのは、友人だった。彼女はわたしを見つけると、何も言わずに微笑んだ。

「おはよう」と口にすることもなく、そのままの勢いでわたしのすぐ隣に椅子を引き寄せ、腰をかける。

 脚の金属部分が床を滑る音が、またひとつの和音をつくる。彼女は当然のようにわたしの肩に寄りかかり、まるでそこが指定席であるかのように安定した体勢を取った。髪からほのかにシャンプーの匂いがして、それがやけに近く感じられる。あいさつ代わりのスキンシップ。そして、わたしの胸をクッション扱いするのは、そろそろ定期券制度にして料金を取るべきかもしれない。

 彼女はいつも、こうやってわたしのパーソナルスペースを容易に突破してくる。もはや慣れっこではあるけれど、毎回、わたしの心臓が一瞬だけリズムを乱す。

 彼女にとって、触れるという行為は、きっと自然なのだろう。言葉はときどき嘘をつくけれど、体温は嘘をつけない。そういう彼女の理屈を、わたしはなんとなく理解している。

 彼女はそんなわたしの心中など気づく様子もなく、目を閉じてうとうとしはじめている。まるで、わたしの肩が彼女にとっての枕であり、ここが世界でいちばん安全な場所であるかのように。

 窓の外では、雲の影がグラウンドをゆっくり横切っていた。

 教室の中の空気は、まだすこし冷たい。けれど、肩越しに感じる彼女のぬくもりが、それをやわらかく溶かしていく。

 椅子の軋む音、呼吸のリズム、遠くのチャイム。それらがすべて混ざり合って、今この瞬間だけの音楽が生まれていた。


 ホームルームが始まると、先生の声が朝の空気を切り裂いた。その言葉は、わたしたちを未来へ並ばせるための行進曲のようだった。わたしたちは、机の列に沿って整列した、音符。先生の言葉が指揮棒になって、ひとりひとりの動きを支配している。

 でも、わたしは、行進よりも寄り道が好きだ。まっすぐに歩かされると、世界の端を見落とす。右も左も、同じ景色ばかりが続いて、そこには偶然の余白が存在しない。道の脇に咲いた花や、誰も気づかない落書き、ふと聞こえる猫の鳴き声。そういうちいさな逸脱のなかにこそ、人生の本当の断片が隠れている気がする。

 だから、寄り道は探求の入り口であり、人生の隠しコマンドでもある。決められたルートを外れてこそ、見える世界がある。

 たとえば、帰り道で偶然見つけた廃屋の中に、誰かの古い日記が落ちているかもしれないし、知らない公園で聴いた風の音が、なぜか心に刺さることだってある。そういう瞬間が、わたしにとっての、生きている証拠だ。

 先生の声は相変わらず規則的で、時計の秒針と不思議なハーモニーを作っていた。

 教室の時計が針を進めるたび、わたしの中の一日も、すこしずつ動いていく。けれど、その進み方はいつも一定ではない。退屈な時間は異様に長く、楽しい時間はまばたきの間に過ぎてしまう。つまり、時計が刻むのは"現実の時間"であって、"わたしの時間"ではない。

 だけど時計という装置は、ある意味で永遠に"12"を追いかける存在でもある。追いついた瞬間に、また逃げられる。ゴールラインを越えたと思った次の瞬間には、もう新しいレースが始まっているのだ。

 秒針がカチリと音を立てるたび、時間は生まれて、そして消えていく。まるで、永遠にリスタートを繰り返す世界。毎秒、毎瞬、生き終わり、生まれるように。

 一年後の自分を想像したことがある人は、どれだけいるだろうか。

 では、一年後に死んでいるかもしれない、と想像したことがある人は?

 一ヶ月後、そして、明日死ぬかもしれない、と思いながら生きている人は?

 今日、そして、今終わるかもしれないと思ったことは?

 なんの希望も、絶望もなく、刹那のいのちを燃やすだけ。

 生まれ落ちたばかりのころは、みんなそうだったばずだ。

 だけれど、わたしたちは知らないうちに、針の音に合わせて歩くことを覚えてしまった。チャイムが鳴るたびに、わたしたちは一斉に立ち上がり、また新しい時間に組み込まれていく。誰かが作った枠組みの中で、同じリズムを刻み、同じ方向へ進む。

 でも、わたしは、ほんのすこしだけそのテンポをずらしてみたい。行進曲の途中で立ち止まり、足元の影を見つめるように。その一瞬の遅れが、きっと、わたしの生きる余白になる気がするから。

 先生の声が、遠くに感じられた。

 窓の外では、風がカーテンを膨らませ、朝の光がそこに淡い波紋を描いていた。

 その波紋はまるで、わたしの心の中に生まれた寄り道の地図のように揺れている。

 まっすぐ進むだけが、正解じゃない。

 そう思いながら、わたしは目を閉じた。

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