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第15話

 朝の昇降口は、まだ夜の匂いを残していた。靴箱を開けると、かすかな埃のにおいが立ちのぼる。埃は、時間の沈殿物だ。人が出入りするたびに巻き上がり、昨日と今日を、一瞬だけ混ぜ合わせる。

 わたしは、上履きに履き替え、廊下に出た。鞄を持ち直して歩き出すと、ようやく足の裏から目が覚めていく気がした。


 教室に入ると、黒板の端に誰かが描いた落書きが残っていた。それは、大きな花の絵で、消し残しのチョークが、まるで粉雪のように散っている。わたしは立ち止まったまま、しばらく眺めてしまった。

 落書きは叱られるけれど、叱られるほど、その記憶は長持ちする。禁止や非難が、かえってその存在を強化し、人々の記憶に深く刻み込まれる。禁止は、存在の延命装置なのだ。

 一時間目の数学。

「証明とは、論理の階段です」と、先生が言った。

 わたしは、ノートに書かれた数式を追いながら、階段は必ず上へ行くとは限らない、と思った。地下へ降りる階段もあるし、行き止まりで終わる階段もあるだろう。むしろ、登りと下りが同時に存在するからこそ、階段というものは成り立つ。証明も人生も、必ずしも上昇だけではなく、下降と矛盾を含んで完成するのだろう。

 休み時間、窓の外を眺めると、グラウンドで数人の生徒がボールを蹴っていた。ボールは真っ直ぐ進むふりをして、必ず曲がっていた。風に流され、人に蹴られ、土に跳ね返る。まるで、進むという行為そのものが、偶然と誤差の連続で成り立っているようだった。

 直進よりも寄り道したほうが、結果として、遠くへ届くことになる。そんなことを考えながら、わたしは頬杖をついた。窓のガラスには、外の景色と重なるように、自分の顔がぼんやり映っている。輪郭がすこし歪んで、まるで他人の顔みたいに見える。

 グラウンドの端で、教師がホイッスルを吹いた。風の中に溶けて、音がすぐに消えていく。わたしの耳に届くまでの間に、いくつもの空気の層がそれを薄めていったのだろう。すべての音は、こうして誰かのもとへ届くまでに、意味を失っていくのかもしれない。


 昼休み、友人が、机に顔を伏せていた。

「眠すぎる」ぼそりとつぶやく声が聞こえた。

 わたしは何も答えず、彼女の髪が机に広がっているのを見ていた。髪は柔らかく、光を吸って、昼の色を変えていた。眠気は見えないのに、髪の広がりが、それを翻訳している。

 翻訳者はいつも、言葉ではなく、物質のほうなのだ。机の木目、シャープペンの転がる音、カーテンのわずかな揺れ。どれも言葉を持たないのに、確かに何かを伝えてくる。たとえば、風が吹けば、カーテンは答える。声を出さずに、揺れだけで返事をする。わたしたちも、本当はそれで充分なのかもしれない。

 教室の空気は、午後の授業を待つ静けさに包まれていた。みんながそれぞれの沈黙を持ち寄って、机の上に並べているみたいだった。

 わたしは、友人のちいさな寝息を聞きながら、窓の外の空をもう一度見た。雲の切れ間から、薄い光が差し込んでいる。ボールを蹴る生徒たちはもういなかったけれど、土の上にはちゃんと足跡が残っていた。曲がりながら進んでいったボールの跡も、いずれ風に消える。それでも、そこを確かに通ったという記憶だけが、目に見えない形で残る。

 わたしの日々も、きっとそんなふうに続いていく。真っ直ぐではないけれど、どこかへ向かって、知らないうちに遠くまで届いているのかもしれない。


 午後の授業は、美術室に移動だった。

 廊下を歩くたび、靴の音がすこしずつ遠のいていく。教室の喧騒から離れるにつれて、空気の密度が変わるのが分かる。まるで、別の世界へ移動していくような感覚だった。

 美術室の扉を開けると、絵の具の乾いた匂いと、紙と木材の混ざったような空気が迎えてくれる。時間が積もってできたような、静かな匂い。石膏像が並ぶ空間は、いつ来ても時間が止まっているようだ。

 アポロン、ラオコーン、ミロのヴィーナス。誰もが黙って、白い肌のままそこに存在している。窓からの光が白い像に落ち、影を濃くしていた。頬や肩、衣のしわに、微細な陰影が生まれている。まるで、呼吸をしているかのように。

 わたしはスケッチブックを広げ、鉛筆を指に挟んだ。黒い線を描くたびに、白が削られていく気がする。

 動かないものほど、動いている。そんな考えが、ふと頭をよぎった。像の表情は、変わらない。けれども、光がわずかに傾くだけで、まるで別人のように見える。静止しているのは肉体であって、影はいつも形を変えている。変化は、形に現れなくても、影に現れるのだ。

 わたしは、その影を描こうとした。でも、鉛筆の黒はどこまでも平面的で、光の複雑な揺らぎを掴みきれない。何度も線を重ねるうちに、紙がすこしざらついてきて、指先を汚していった。

 向かいの席では、友人が真剣な顔で石膏像を見つめていた。その像も、光も、影も、そして彼女自身も、全部が一瞬ごとに違う形をしている。けれど、わたしのスケッチブックの中では、時間が止まっていた。鉛筆で描かれた線だけが、いまを固定する唯一の手段だった。

 描き終えたページを見つめながら、わたしは思った。わたしたちは、止まっているようで、止まっていない。光と影の間で、知らないうちにすこしずつ変化していく。そして、その変化を、誰も完全には描けない。けれど、それを描こうとする試みの中に、たしかに、生きているという感触があるのだ、と。


 帰りのチャイムが鳴ると、教室のざわめきが一気に立ち上がった。鞄を閉じて立ち上がると、友人が後ろから袖を引いた。

「今日、図書室寄っていかない?」

 わたしは、すこし考えてから、首を横に振った。彼女はあっさり「そっか」と言って、手を離した。その軽さが、かえって重かった。執着のなさは、安心と不安の両方を生む。

 校門を出ると、夕暮れの空が、濃い橙色に染まっていた。電線に止まった鳥の群れが、一斉に飛び立って、空に線を描く。線はすぐにほどけ、ただの点々に変わる。

 集合と解散は、ほんの数秒で入れ替わる。集まる意味より、散る自然さのほうが、美しいこともある。

 帰宅して机に座ると、窓の外から、虫の声が聞こえてきた。一定のリズムで繰り返されるその音は、楽譜に書き写せそうで、実際には書き写せない。自然の音楽は、人間の譜面を拒む。拒むからこそ、耳に残り、意味のないまま、安心を与えてくれる。

 わたしはノートを開かず、ただ机に手を置いた。今日は、余白に何も書かなかった。言葉にしないこともまた、言葉の一部だから。

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