第10話
放課後の廊下は、夕陽に染まっていた。
窓から差し込む光が床に長く拡がり、わたしの影を引きずり伸ばす。影は、わたしに寄り添い、いつも熱心に登下校している。朝も一緒、昼も一緒、そして放課後も。友情を通り越して、執着に近い。なのに、影は「好き」とは、一度も言ってくれない。友人よりも、無口で頑固だ。
友人は隣で、部活動の掛け声を面白がって真似していた。声が廊下に反響して、すこしだけ大げさに響く。彼女の声は楽器みたいで、音程を外しても、なぜか明るい。わたしは黙って聞いていたけれど、心の中では、無伴奏交響曲と名付けていた。これもまた、青春の一種なのかもしれない。
昇降口で靴を履き替えると、外の空気はすでに涼しくなっていた。夏の終わりと秋の始まりが、互いに境界線を譲り合っている。どちらが勝っても負けても、わたしには制服がある。制服は、季節を超えるコスプレ衣装で、便利だけれど不自由だ。
便利と不自由は、だいたい両隣に住んでいる。便利さを手に入れれば、だいたい不自由さもセットでついてくるシステムなのだ。なにかが便利になるたびに、わたしは、何を失い、何に縛られているのか、そのバランス具合を問い直す必要がある。
校門を出ると、友人が当然のようにわたしの腕を取った。恋人つなぎではなく、友情つなぎ。指先から伝わるぬくもりは、体温よりも厚かましい。わたしの自由を半分持っていかれている気がするのに、なぜか嫌ではなかった。むしろ、ちょっと安心している自分がいる。
人は、手をつながれると、逃げ道をなくしたのに守られている、と錯覚する。自分の自由な意思を一部放棄する代わりに、相手が自分を導いてくれるという安心感を得る。錯覚とは、やさしい嘘の別名なのだ。
学校近くのコンビニに寄ると、棚の上に新商品のシールが貼られていた。『新しい』と書かれているだけで、人は買いたくなる。わたしはその誘惑に負けて、クリームパンを手に取った。
店を出ると、夕焼けが街を塗り替えていた。赤色は空の落書きで、消しゴムでは消せない。
パンの袋を開けると、中のクリームがすこしはみ出していた。未来を隠しきれないパン。人間もたぶん同じで、隠そうとしても、何かがはみ出す。やさしさとか、わがままとか、百点満点を取れなかったテストの答案とか。
友人は、わたしのクリームパンを半分奪い取り、当然の顔でかじった。わたしは、文句を言わなかった。怒るよりも先に、笑顔でパンを頬張る友人と、夕焼けとのコントラストに吸い込まれた。
空の赤と、パンの甘さと、友人の笑い声。その三つの要素だけで、今の世界は成立していた。
駅までの道で、電柱が規則正しく並んでいた。まるで、世界が定規で引いた線の上に建てたように。わたしはそれを、電柱行列と名付けた。数学の行列は苦手でも、電柱の行列なら好きになれるかもしれない。なぜなら、計算式よりも、鳥の糞の方が具体的だから。
電車に乗ると、窓に映る自分がいた。隣には、わたしに寄りかかって眠りかけている友人。二人の姿が、窓ガラスに並んでいる。
鏡でもなく、写真でもなく、ただのガラスに映った二人。
なんの演出もない、ただありのままのわたしたち。
それは、世界の余白に描かれた落書きのように、不完全で、だからこそ、消えにくい。