第五章 その一
「水夏霞さんっ!」
水夏霞が目を覚まして上半身だけを起き上がらせると、まだ玉虫に憑依された後遺症が残っているのか、水夏霞はまるで目を回したように頭を支えている。そんな水夏霞に鈴音は駆け寄ると、すぐに水夏霞の身体を支えてあげる。
確かに今でも水夏霞は玉虫の傀儡であり、危険な存在には違いないのだが、玉虫を撃退した今の間だけは玉虫もすぐには行動を起こさないだろう。そう鈴音は考えたからこそ、鈴音は何の気兼ねもなしに水夏霞に駆け寄って、支えているのだ。
そんな水夏霞が鈴音の顔を見ると、何かを思い出したかのように驚いた表情をすると、すぐに泣き出して鈴音に抱き付いてきた。そんな水夏霞の頭を鈴音は優しく撫でてあげるが、水夏霞にはどうしても口にしないといけない言葉あったのだろう。その言葉を口早に話すのだった。
「鈴音さん、ごめんなさい、ごめんなさい。私、私の所為で鈴音さんまで殺すところだった。そんなつもりは無いのに、また玉虫に憑依されて身体が勝手に。ごめんなさい、そんな事をしたくなかったのに、あんな事をするつもりじゃなかったのに」
口早に謝罪の言葉を口にする水夏霞の口に鈴音は人差し指を押し当てる。そんな鈴音の行為に水夏霞は不思議そうな顔で鈴音を見上げるのだった。そんな鈴音が落ち着いた、優しい声で水夏霞に話しかける。
「大丈夫だよ、全部分ってるから。だから水夏霞さんが気にする事じゃないよ。それに……こうなる可能性は充分に推測してたから。それよりも水夏霞さん、私の方こそ思いっきり攻撃しちゃったけど身体は大丈夫?」
謝るつもりだったのに逆に鈴音に心配されて、水夏霞は戸惑いながらも数度だけ頷くだけだった。それでも水夏霞に怪我が無いと鈴音には分かったのだろう。鈴音は安堵の表情で水夏霞によかったと伝えると、ある仮説を立てる。
やっぱり水夏霞さんにダメージは残ってないか。そうなると玉虫の力かな? その力によって傀儡を守る力も働いているって事になるのかな。だから水夏霞さんには怪我は無かった。私があれだけ体当たりや、思いっきり蹴飛ばしたのに痛みすら残ってないって事はそうなるよね。もっとも、沙希みたいに傀儡自体の意識を飛ばしちゃえば、別の意味でダメージが残ると思うんだけどね~。
つまり玉虫に憑依された人間はその時点で玉虫によって身体を保護する力が働いているという事だ。だから鈴音が水夏霞に体当たりや蹴りを入れても、今の水夏霞には痛みすら残っていない。一方で沙希の例を上げてみると、沙希は完全に学を窒息させている。さすがに玉虫の力で守られていると言っても、それは外部からの攻撃だけであって、沙希のように頚動脈を攻撃するような身体の内部を攻撃には対応できていないという事だ。
その事が分かっただけでも収穫があったといえるだろう。もちろん、次に玉虫と戦う時のためにだ。それに玉虫は、はっきりと言っている。まだ切り札があると。その切り札が何なのかは鈴音には大体想像が付いているのか。だからこそ、その切り札を交えた戦闘方法を考慮するのだった。
そうなると……次は実質的な戦闘じゃなくて心を攻めるのが得策かな~。……う~ん、とは言ってもな~、どうやって攻めれば良いんだろう。……あーっ! もうっ! ここで考えててもしかたないか。こうなったら直接本人から聞き出してから攻めてみるか。そんな決断を下す鈴音。どうやら今度も作戦といえる物は無く、どうやら行き当たりばったりのようだ。
まあ、今の状況で確たる情報が無い。だから鈴音としても、しっかりとした推測は立てられないし、今は状況に合わせて動くしかないのだ。つまり、仮にも鈴音の頭が良かったとする。仮の話である事が重要だが、もし、そうだとしても、やはり推測の元となる情報が無い限りは、どんなに鈴音の頭が回っても、確証を得てから行動を起こす事は出来ないだろう。つまり、それだけ情報という物は大事なのだ。
改めて自分達に情報が欠けている事を実感する鈴音。だからと言って、ここでいつまで待っていても情報が入ってくるわけではない。今の鈴音達には自ら動いて情報を手に入れる事が最重要事項の一つなのだから。だからこそ、鈴音はすぐに行動に出ようとするが、やっぱり水夏霞が気がかりなのだろう。鈴音は水夏霞が落ち着くまで、傍で優しく背中を撫でてやっていると、水夏霞も落ち着いて来たのだろう。ゆっくりと鈴音から離れた。
「えっと……鈴音さん……ごめんなさいっ!」
改めて謝る水夏霞。どうやら水夏霞は先程の事をよっぽど気にしているようだ。それもしかたない。なにしろ水夏霞は今朝になってから自分が自分の両親を殺した事を思い出した。それだけは無く、他の村人も殺している。そんな水夏霞に今度は鈴音を殺させようとさせたのだから水夏霞自身に責は無くとも、贖罪の思いは生まれてしまったようだ。
そんな水夏霞に鈴音は笑顔で話しかける。
「水夏霞さん、謝らなくて大丈夫だよ。だって……私はこうやって生きているんだから。それよりも私は水夏霞さんの方が心配だよ~」
「えっ」
あまりにも唐突な鈴音の言葉に水夏霞は驚きの表情で鈴音を見上げる。
「確かにさっきの状況も、水夏霞さんが今まで行ってきた犯行も、全ては水夏霞さんの意思が無く、玉虫に操られての犯行と言えるから水夏霞さんに罪は無い。でも……水夏霞さんは、いくら自分に罪が無いと言っても自分を許せないでいる。だからさっきみたいな事を言ったし、これからの事をが少しだけ心配……かな?」
最後だけ疑問系にして水夏霞に尋ねる鈴音。確かに最後にそんな風に尋ねられると水夏霞としても、これからの事をしっかりと考えて答えを出さなければ行けなかった。まあ、悪い言い方をすれば誘導尋問とも言えるだろう。けれども、今ここで水夏霞にしっかりとした答えを出させる。その事が水夏霞を救う事になるのだと鈴音は判断したからこそ、そんな風に尋ねたのだ。
鈴音に尋ねられて水夏霞は鈴音が本気で自分を心配してくれた事を嬉しく感じながらも、確かに自分の手で殺してきた人達の事を同時に考えると複雑な心境になった。それでも、鈴音が先程静音の言葉を借りていった言葉『罪を犯した瞬間から罰は始まる。その罪と向かい合う事が罰である』その言葉が蘇ってきた。
改めて静音の言葉が胸に突き刺さる水夏霞。確かに水夏霞には罪は無いと言えるだろう。だが水夏霞の中にはしっかりとした罪の意識がある。その意識があるからこそ水夏霞はいくら玉虫に操られていたとしても自分を許す事が出来なかった。だから自分の罪に値する罰を心のどこかで望んでいるのかもしれない。
少なくとも鈴音は今の水夏霞を見てそう判断した。だからこそ、あのような言葉を水夏霞に投げ掛けたのだ。水夏霞がこのまま罪悪感に任せて自分自身を投げ出してしまうのではないか、鈴音はそんな心配の意味を込めて最後に問い掛ける形にしたのだ。
けれども、水夏霞の問題はそんなにすぐに答えが出るような物ではない。なにしろ水夏霞の中にはしっかりと両親を始め、村人を殺してきた感触がしっかりと残っているのだから。それがある限りは水夏霞は罪悪感を捨てる事なんて出来ないだろう。だからこそ、水夏霞はその罪に値する罰を望んでいるのではないのかと鈴音は感じ取ったのだ。
そんな鈴音の考えが当たっていたのだろう。水夏霞は鈴音の言葉に即答する事が出来ずに、鈴音から視線を逸らして顔を伏せるのだった。そんな水夏霞を見て、鈴音は立ち上がると今まで握っていた霊刀を仕舞いこむと、再び重いハンマーを背負い。次の柱に向かう準備をした。そんな鈴音を水夏霞はすがるような視線を向けるのだった。
そして鈴音は準備を終えると再び水夏霞の元へやってきて、静かに水夏霞の両手を取るのだった。
「水夏霞さん、今の私には水夏霞さんを救済する事は出来ない。それは水夏霞さんの罪悪感が過去にあるから、過去にある罪悪感を私にはどうする事も出来ない。けどっ! 水夏霞さん、水夏霞さんにこれ以上の罪を重ねるような真似は絶対にさせない。それだけは約束するよ~。絶対に玉虫を倒して、今の事態を収拾するから。そうしたら……ゆっくりと自分が何をすべきかを考えてくださいね」
「……鈴音さん」
鈴音の言葉に何かを感じたのだろう。水夏霞はいつの間にか涙を流していた。そんな水夏霞が鈴音から視線を外し、顔を伏せて流れた涙を地面に落とすと静かに呟くのだった。
「……ありがとう……鈴音さん」
その言葉を聞いて鈴音は満面の笑みを向けて水夏霞を立たせる。それから鈴音は水夏霞の手をしっかりと握ってこれからの事を話すのだった。
「とりあえず水夏霞さんは家に帰ってください。そして戸締りをしっかりして、絶対に家から出ないようにしてください。まあ、この程度は気休め程度にしかなりませんけど、家の中に隠れていれば玉虫に見付かる可能性が低くなりますから。そうすれば、もう二度と玉虫に憑依される事は無いですよ。その間に私達が玉虫を倒しますから……だから……安心してください」
最後の言葉だけ微笑を交えて口にする鈴音に水夏霞は大きな安心感を憶えた。何故だか分からない、もしかしたら理由なんか無いのかもしれない。ただ……鈴音の微笑には水夏霞を安心するだけの力が有った事は確かな事実なのは変わりない。
そんな鈴音の言葉を受けて頷く水夏霞。そんな水夏霞を見て鈴音はゆっくりと水夏霞の手を離すと、ゆっくりと水夏霞から放れて、背中を向けて次の柱に向かおうとする。
そんな時だった。突如として水夏霞が鈴音を呼び止めた。呼び止められて振り向く鈴音。けれども水夏霞は何で呼び止めたのか自分でも分からないと言った表情をしており、挙動不審になっている。それでも気持ちの整理が付いたのだろう。しっかりと鈴音を見詰めると思った言葉を口にする。
「……あの、私にはこんな事しか言えないけど……鈴音さん、その、頑張ってくださいね」
そんな水夏霞の励ましに鈴音は満面の笑みを浮かべると水夏霞に向かってVサインをするのだった。そんなひょうきんな一面を見せた鈴音に水夏霞も思わず微笑んでしまう。そんな水夏霞を見て、鈴音も安心したかのように言葉を口にする。
「それじゃあ、行ってきます」
「はい、行ってらっしゃい。気をつけてね」
「うんっ!」
まるで緊張感が無い返事を返してきた鈴音に水夏霞はなんだか心が少しだけ軽くなったような気がした。
もちろん、鈴音としても水夏霞にこれ以上は心に負担を掛けないために明るく振舞ったのだ。そんな鈴音の行動が功をそうしたのだろう。水夏霞の顔は少しだけ影を落としている物の微笑む事が出来たのだ。それだけでも鈴音の行った行動には充分な意味があるだろう。だからこそ鈴音も満足げに微笑みながら一度だけ頷くと再び水夏霞に背を向けて、次の柱に向かうのだった。
そんな鈴音の後姿を水夏霞は見えなくなるまで見送っていた。水夏霞にも分っていたのだろう。今の自分にはそれだけしか出来ないと、だからこそ鈴音をしっかりと見送る水夏霞だった。
その頃、千坂は一本目の柱を破壊して、その途中にある羽入家に潜入しようと中の様子を窺っていた。
……静かになってる。どうやら本家や分家の方々は村に向かったみたいですね。やっぱり玉虫の力を前にしては抵抗のしようも無かったという事ですか。残念だが、使用人の全ては殺されたか、逃げたかのどちらかと言ったところか。でも……源三郎様なら……。どうやら千坂には確信に似た考えがあるようだ。だからこそ、すっかりと静まり返った羽入家へと近づいたのだ。
そして羽入家でも血筋と側近しか知らない道を進み、羽入家への扉へと辿り着いた千坂はゆっくりと扉を開けるのだった。もちろん、手には既に拳銃が握られている。鈴音の推理を聞いて、これまでの全員が報告してきた話を総合する限りは、千坂も覚悟を決めて、たとえ仕える羽入家の血筋でも殺す覚悟が出来ているようだ。だからこそ、千坂は中の様子を窺いながも、誰も居ない事を確認すると素早く羽入家に侵入するのだった。
さすがに羽入家の血筋と側近しか知らない道と扉だ。その付近には争った後も残されていなかった。この広大な羽入家だ。抜け道にも似た道が幾つかある。その全てを知っているのは羽入家の血筋と一部の側近のみである。もちろん、源三郎の右腕とまで言われた千坂だ。羽入家に繋がる道は全て把握していた。だからこそ、ここまでは安全に進む事が出来たのだ。
だか、ここからは羽入家の敷地である。まだ暴走した羽入家の血筋が残っていてもおかしくは無い。それでも千坂には、やるべき事があった。だからこそ、こうやって羽入家へと侵入したのだ。
千坂が侵入した場所は羽入家の裏側。羽入家の裏側はすぐにうっそうとした森と山になっており、道などは存在しないと思われるが、実は何本かの道が存在していた。もちろん、その事は羽入家に仕えている使用人などにも知らせていない。だから、そこから逃げる者などはいなかったようだ。その証拠にその付近には争った後が何一つとして残されていなかった。
そして千坂が侵入したのは裏口の一番左側、つまり平坂に近い方の入口から侵入した事になる。そして、一番右側にはすっかり焼け焦げた、建物の梁や柱みえた。どうやら羽入家の使用人たちは一番右側の建物に立てこもって最後の抵抗をしたようだが、あの様子では生きている者は一人も居ないだろう。だから今更、そこに向かっても意味は無いと千坂は判断し、自分の目的を達成するために羽入家の屋敷に侵入する。
羽入家は純和風作りの家となっており、その敷地も屋敷も広大だ。それでも棟によって五つに分かれていた。
まずは門の正面にある棟。ここは客間や台所、その他の用事で使用人達が使用する棟になっている。鈴音達が迎えられたのも、この真正面にある棟である。そして、その右側に有るのが使用人たちの事務所や、羽入家の運営に関わる作業をするところ。つまりは羽入家の事務所的な棟と言っても良いだろう。
そして右側の奥、今では焼け落ちたところだ。そこは住み込みの使用人達の住居になっており、数十人の使用人がその棟を利用していた。
更に羽入家の敷地、その中央には中庭があり、正面の奥には蔵が幾つも並んでいる。その蔵の中は骨董品や美術品、そして銃器などの武器など、様々な物が仕舞いこまれている。そして前日、その蔵から銃器を出して源三郎を殺しに来る犯人に備えていたのだが、まさかこんな事実が隠されているとは羽入家に住む者は誰も予想できなかったし、こんな使われ方をされるとは思ってもみなかった事だろう。
中庭と中央の棟を越えて屋敷の左側にある棟、こちらは完全に羽入家の血筋に関する棟となっており、使用人ですら許可無く、立ち入る事を禁止されている場所だった。つまり屋敷の左側は完全に羽入家の血筋達が住む住居となっている。そこに立ち入る事が出来るのは羽入家の血筋達と一部の幹部クラスの使用人達だけである。だからこそ、千坂は一番左側からの侵入を試みて、誰もこの扉に気付いていない事を察する事が出来た。
だからと言って油断は出来ない。なにしろ左の棟は羽入家の血筋達が使っていた場所である。だから未だに暴走した羽入家の血筋が居てもおかしくは無かった。それでも千坂は細心の注意を払いながらも羽入家の屋敷に侵入する。
純和風作りの家なら、構造上分かりやすい構造となっていてもおかしくは無いのだが、羽入家は警察からも目を付けられる、私設軍隊と称させるほどの武力を有している家である。その本拠地と言える羽入家の構造は普通に作られる純和風作りとは違い、かなり複雑な形で作られていた。
これは外敵の侵入を阻むとのと同時に外敵を発見した時に逃がさないために、このような複雑な作りになっているのである。だから千坂も目的の場所に向かうためには、そう簡単に辿り着ける場所にはなかった。
ワザと作った狭い廊下や迷わせるために作られた廊下の途中に作られた壁など、さまざま仕掛けがあるが、千坂は迷う事無く羽入家の中を進み続ける。さすがは源三郎の右腕とまで言われた千坂だ。羽入家の構造に関しても充分過ぎるほど理解していた。
そんな千坂が廊下の曲がり角から覗き込み、先の様子を窺っていると昔の事を少しだけ思い出した。それはまだ千坂が羽入家に来たばかりの頃だ。その頃は一端の使用人、しかも来てからの数日はこの羽入家で何度迷子になった事かと、千坂はその事を思い出し、少しだけ口元に笑みを浮かべる。
まさか千坂もこんな形で改めて羽入家が複雑な作りになっている事を実感するとは思っていなかったのだろう。だからこそ、そんな昔の事を思い出し、思わず口元に笑みが出てしまったのだ。それでも千坂は気を緩める事無く、先の安全を確認すると慎重に歩を進める。
なにしろこんな状況だ。止む得ないとはいえ千坂としても銃口を羽入家の血筋に向ける事だけは出来る限りは避けたい。だからこそ千坂の歩みはどうしも遅くなっていく。いつもなら数分もしないうちに辿り着ける場所に千坂は数倍の時間を掛けて歩んでいるのだ。だから千坂が目的の部屋に付くまで、かなり時間を要する事になった。
そして千坂は中の様子を耳を立てて窺うが、物音一つしない。その事に不審を抱きながらも千坂はゆっくりと障子を開いていく。そして部屋の中が全て見渡せるまで開くと千坂は障子を一気に開いて驚きを示していた。どうやら千坂にとって予想外の事が起きたようだ。
その部屋には一組の布団がひかれているが、まるで布団の上で暴れたように布団は乱れていた。そんな状況に千坂は最悪な展開を予想するが、すぐにその予想を捨てる事にした。いや、正確にはその予想を信じたくはないのだろう。だからこそ、微かな希望を抱いて部屋へと足を踏み入れる。
「……いったい……どちらに?」
部屋の中には乱れた布団意外に異常は無かった。つまり羽入家の血筋がここで暴走したという事は無いという事だ。その事実は千坂を安心させるのと同時に混乱に陥れた。
血痕も銃痕も無い、という事はここでは発砲どころか誰も殺されていないし、殺していないという事になります。となると……血が暴走した。……いやっ! それは無いはずだ。あの方が玉虫の呪い等に負けるはずが無い。そうなると……そうかっ! 最後まで自分の役目を果たそうと言うのかっ! そんな決断を出すと千坂はすぐに部屋の外を確認する。どうやら異常どころか人の気配すら感じない。誰も居ないのは確実なようだ。だからこそ千坂は確信する。
「すでにあちらか」
千坂はそんな言葉を呟くと再び警戒しながら歩を進める。現在千坂が居る場所は左棟の奥に当たる。千坂はそこから中央の棟を目指して歩を進めるのだった。もちろん、先程も言ったとおりに羽入家の作りは複雑になっている。だから一本道で中央の棟には行けないのだ。
途中で外に面した廊下に出たり、階段を登って二階に上がったりをしながら千坂は慎重に歩を進めた。そして幸いというべきだろう。すでに中央の棟に辿り着いているというのに千坂は今まで羽入家の血筋と遭遇するどころか、誰とも出会う事無く、ここまで来れたのだ。これは羽入家の血筋が全員、羽入家を後にしたと考えるべきだろう。そう、たった一人を残して。千坂はその一人のために一番危険と思われる羽入家へと侵入したのだ。
そして千坂は外に面した廊下の角から先を窺うと、やはり誰も居ないが微かに物音を耳にした。
やはり、ここでしたか。確信を抱く千坂は慎重に歩を進めると、目的の部屋に設置してある障子を微かに開いて中の様子を窺う。だが、中を窺ったのは数秒だけで次の瞬間には叫びながら部屋に中に駆け込むのだった。
「源三郎様っ!」
そう、千坂は源三郎の安否を確かめるために羽入家に侵入したのだ。なにしろ源三郎は暴走する羽入家の血筋の中で唯一自我を保っていた人物である。だから柱を破壊して玉虫が弱まった今では源三郎も楽になっているはずだと思い。千坂は羽入家に侵入する事を決めたのだ。そして千坂の予想が運良く的中したようであり、源三郎は苦しそうながらも鈴音達を向かえた部屋。つまり羽入家にとっては重要な会議の間と言っても良いだろう。その高段に座りながらも、顔には苦痛を出していた。
そんな源三郎の姿を見て駆け寄る千坂はすぐに源三郎の背中を擦ってやる。こうすれば少しでも楽になると思ったのだろう。だが源三郎はそんな千坂をすぐに離れるように手を差し出すと、千坂は高段から降りて源三郎の前に座り頭を下げた。そしてすぐに源三郎の様態を窺うのだった。
「源三郎様、お加減は如何ですか。未だに玉虫の呪いが苦しめているのですか?」
そんな問い掛けをする千坂に源三郎は笑って見せた。そして苦しげながらも千坂の質問に答えるのだった。
「な~に、この程度では儂は暴走せんよ。それに徐々に楽になって来ておるからのう。それに玉虫の事を言って来たという事は、鈴音さん達は玉虫に気付いたという事だな?」
千坂に平気な素振りを見せてはいるものの、やはり玉虫の呪いが効いているのだろう。源三郎は苦しそうだが、それ以上の精神力で玉虫の呪いを押し返している。さすがは源三郎と言ったところだろう。伊達に羽入家を率いている訳ではないのは、この事だけを見ても良く分かる。そんな源三郎が千坂に平気だと伝えた後に質問をしてきたので、千坂は源三郎に今までの事を報告するかのように全てを源三郎に話した。そして千坂の報告を全て聞き終わった源三郎が納得したかのように何度か頷いた。
「さすがは静音さんの妹と言ったところか。すでに真相のほとんどを見抜いているどころか、まさか……あの玉虫に一矢報いているとは、さすがと賞するべきだな」
「はい、この非常時でも鈴音さんは様々な情報から真実と思われる物を導き出しました。私などはただの手伝いをしてるに過ぎません」
源三郎に素直な心境を伝える千坂。確かに千坂は鈴音の推理に従って動いているに過ぎない。だが源三郎にとっても、それで良い事であり、千坂にはそうして欲しかったのだ。だからこそ、源三郎は軽く手を振りながら千坂に言葉を向ける。
「いや、千坂よ。お前はそれで良い。お前がやるべき事は鈴音さんの手足となり、命に代えても鈴音さんを守り、その命を全うする事だ。お前ならそれが出来ると思ったからこそ、お前を鈴音さんの元へやったのだ。お前はこれからも鈴音さんの指示通りに動け」
はっきりと命令する源三郎。そしていつもの千坂ならためらいも無く返事をしたところだろうが、今回ばかりは返事をするのをためらった。それは千坂にとってはかなり珍しい事であり、源三郎に疑念を抱かせるのに充分な行為だった。
「どうした千坂、何か不満か?」
苦しみながらも少しだけ首を傾げて千坂に質問する源三郎。そんな源三郎の問に今度は即答で返す千坂。だがどうやら言い辛い事があるようだ。
「いえ、何も不満はありません。……ですが、玉虫は私の前にも現れるはずです。きっと……一緒に」
「……戦えないか?」
「……はい。私は源三郎様を一番に、そして二番目に……助けになればと思い動いてきましたし、源三郎様も自分が死んだら、次は……」
「分かった千坂、みなまで言うな」
千坂の言葉を途中でとぎる源三郎。どうやら千坂が何を言いたいのかが分かったようだ。だからこそ千坂の口から、それ以上の事は言わせないし、その原因となったのは自分の命令だからこそ千坂の口から言わせる訳にはいかなかったのだ。
そんな源三郎が少しでも楽な体勢を取るために肘掛に体重を乗せると、少し考えてから千坂に向かって言葉を出すのだった。
「だが千坂よ。そこまで分っているなら、何かしらの対抗策があるのであろう」
まるで千坂の心を読んだかのように源三郎はそんな言葉を発して、千坂も黙って一度頷いた後に源三郎に向かって答えた。
「はい、一つだけ考えがあります。……ですが……これをやれば私は確実に死にます。私が死んで止める事が出来れば良いのですが、無駄死にとなっては源三郎様に顔向けが出来ません」
どうやら千坂の対抗策は確実に自分の死を想定しているようだ。そこまでして千坂には止めなければ行かなかったし、その事で考えを改めてくれるなら千坂の死も無駄では無いと千坂は考えたようだ。だがそれで止まらなかった、千坂は無駄死にである。それを考えると、どうしても千坂は源三郎に謝らなければ行けなかった。
「申し訳ありません源三郎様。今回ばかりは源三郎様の命を果たす事が出来ません。ですが、この千坂、自らの死を持って必ず止めてみせます。だから……今回の命ばかりはご容赦を」
そんな言葉と共に源三郎に土下座をする千坂。今まで源三郎の命を完璧にこなしてきた千坂にとっては、これが最初で最後の命令違反になる事は千坂にとって重々承知な事だ。だからこそ千坂はどうしても源三郎と会わなければいけなかったのだ。だからこそ羽入家に侵入した。
そんな千坂の言葉を受けて、源三郎は少しだけ苦しげな声を上げるが、すぐに呼吸を整えて千坂に向けて頭を上げるように命じるのであった。
そして源三郎は大きく息を吐いて、まるで諦めたかのように話を続ける。
「のう千坂よ。今のあれはお前が死んだとしても決して止まらんだろう。たとえあれの前でお前が自決しても、あれは自分で決めた事をやり遂げようとするだろう。それを止められるのは……鈴音さんしかいない。儂はそう思っているからこそ、お前に鈴音さんの命に従えと命じたのだ」
そんな源三郎の言葉に千坂は羽入家に来て、初めて源三郎に反抗するような声で答えるのだった。
「確かに源三郎様の言うとおりかもしれません。ですがこの千坂っ! 戦う事などは決して出来ませんっ! 私は源三郎様の次に仕えてきた方です。だから決して戦う事は出来ませんっ!」
「だが千坂よ」
初めて反抗的な態度を示した千坂に源三郎は驚きもせずに、ただ冷静に諭そうとするが、その前に千坂の覚悟が語られた。
「ですが止める事は出来ますっ! 羽入家に仕えてきた者として、一緒に死ぬ事は出来ますっ! それで止める事をお許しくださいっ!」
千坂の覚悟を聞かされて源三郎はやっと千坂が何をしようとしているのかを理解した。だから源三郎にしては珍しく驚きを隠す事が出来なかった。まさか千坂がここまでの覚悟を決めているとは源三郎にも予想が出来なかったのだろう。
そして、そんな千坂を右腕として扱ってきた源三郎だからこそ、千坂の意思がとてつもなく固い事を知っている。だから今ここで何を言っても千坂の心が変わらない事を良く知っていた。
源三郎は少しだけ悔しげな顔をするが、それは一瞬だけで今度は先程とは打って変わって、いつも以上に冷静で、威厳溢れる顔付きになっていた。そんな源三郎が千坂に尋ねる。
「……千坂……本気か?」
「はっ! この千坂、自らの命を持って羽入家の名誉だけは守ってみせます。必ず、この命を持って止めてみせます。それでご恩返しとさせてください」
千坂の言葉を聞いて源三郎は瞳を閉じると考えているのか、苦しんでいるのか分からないうめき声を上げる。源三郎の事だからたぶん前者なのだろう。いや、正確には両方かもしれない。どちらにしても千坂の計画が実行されれば源三郎は掛け替えの無い者を二人も失う事になる。それは源三郎にとって苦痛でしかないのだろう。
だが、ここで千坂が動かない限りは止められないと思われるのも確かだ。なにしろこれは羽入家の原因であり、羽入家で後始末を付けなければ示しが付かないのだ。
確かに鈴音に任せれば確実に止めてくれるかもしれない。だがその前に千坂が止める事が出来るのなら、確かに千坂が言ったとおりに鈴音に頼る事無く、羽入家の名誉だけは守れる。だが、他の血筋は暴走している状態だ。今更、一人だけ止めてもしかたないと思われるが、その一人が重要な人物だからこそ、羽入家で止めるべきだとも源三郎は考えざる得なかった。
そんな源三郎が結論を出したかのように、ゆっくりと瞳を開くと天を仰ぐ。
「どうやら儂の出る幕はないようだな。儂も年を取った、そろそろ若い者に任せる時期なのだろうな。……良いだろう、千坂。お前が思ったとおりにやってみろ。後の事は心配するな、たとえお前が失敗したとしても、鈴音さんが必ず止めてくれる。羽入家も息子達が続けてくれるだろう。これまで良く仕えてくれた、感謝する。そしてすまない、お前の命を投げ出させる事になった事態になった事に」
そんな言葉と共に源三郎は千坂に向かって初めて頭を下げた。そんな源三郎に千坂は慌てて源三郎に駆け寄ると頭を上げるように言うのだった。そして頭を上げた源三郎に対して千坂は少し微笑みながら言うのであった。
「感謝するのは私の方です。私拾って頂き、羽入家に入れてくれました。この羽入家で過ごした日々は私にとっては掛け替えの無い幸福と言えましょう。だから源三郎様、頭を下げないでください。この千坂がこうしていられるのも、進んで命を投げ出せるのも全てはお二人がいてくれたお陰なのですから」
「……そうか……そう言ってくれるか」
「はいっ!」
千坂は心の底から全ての思いを乗せて返事をした。それは言葉や文章で表す事が出来ないほどの何かかもしれない。強いて上げるとするなら羽入家に対しての、いや、二人に対しての忠義心と言ったところだろう。そんな強い思いが有るからこそ、千坂は二人を恨んだりしない、むしろこんな状況にした玉虫に強い恨みを抱くほどだ。
ここまで二人の運命を苦しめた玉虫に。
そんな千坂が源三郎から離れて高段から降りると、再び源三郎に向かって頭を下げた。
「では源三郎様、これにてお別れでございます。そして晩年のご寿命が尽きた後に、冥府にて再び源三郎様に仕えさて頂きたく思います。それまで、ご健全であられますよう。冥府より祈っております」
はっきりと別れを告げる千坂に源三郎の瞳は潤んだものの、決して涙は流さなかった。ここで涙を見せては千坂の心残りになる事は源三郎も重々承知しているのだろう。だからこそ、ここまで礼儀を尽くしてくれた千坂に向かって源三郎も礼儀を尽くす。
「千坂よ、今までよく儂に仕えてくれた。お前の仕事ぶりに、この源三郎、感謝しきれないぐらい感謝しておるぞ。儂もそう長くは無い、冥府では再び杯を交わし、また儂に仕えてくれるな」
「はっ、その時を心待ちにしております」
「うむ、儂もだ。……千坂よ、そこの酒を持て」
「はっ」
千坂は部屋の片隅に置いてあった、酒の入った徳利と杯を持つと源三郎へと手渡した。そして源三郎は杯を千坂に差し出すと、千坂は両手でしっかりと杯を手に取ると、その杯に源三郎は酒を注ぐのであった。
「今生の別れの杯、儂からの冥土への土産だ」
「はっ、ありがたく頂戴いたします」
杯にしっかりと注がれた酒を一気に飲み干す千坂。そんな千坂を見て、源三郎は満足げに頷くだけだった。それから千坂は飲み干した杯を拭いて源三郎に返すと、再び源三郎に向かって頭を下げた。
「では、いつまでも別れを惜しんでいては時を逃します。これにて別れにします」
「うむ。だが安心せい。儂も年だからな、案外と早くそちらにいくかもしれんぞ」
そんな源三郎の言葉に千坂は頭を上げると微笑んでみせる。
「私は源三郎様にはご健全で長生きをして頂きたく思います」
「……そうだな、まあ、やるべき事を全てやり終えてから、そちらにいくとしよう」
「はっ、それまでお待ちしております」
「うむ」
「では、これにて」
「うむ、さらばだ……千坂」
「源三郎様もお元気で」
千坂はもう一度だけ頭を下げると、静かに部屋を後にした。一人残された源三郎に再び玉虫の呪いが襲いかかるが、源三郎は瞳を大きく開くと気合だけで玉虫の呪いを弾き飛ばしてしまった。それほどまでに今の源三郎には弱味を出すわけにはいかないのだ。そんな源三郎が思う。
まさか、こんな形で二人を失う事になるとはな。……いや、当然か。儂もあの時に抗えば、このような事態にならなかったのかもしれん。全ては玉虫の呪いに負けて、全てを諦めてしまった儂に責任があるのだろうな。すまない……千坂。すまない……。
千坂は源三郎との別れを済ませると、すぐに拳銃を手に再び羽入家を進み始めた。だが出口に向かってではない。千坂の対抗策を実行するためには、どうしても羽入家で入手しておかねばならない物があるからこそ、千坂はそれが置いてある場所へと向かった。
それはすでに昨日の段階でいつでも使えるように準備してある。後は使い方次第だ。千坂はそれを自分が考えたとおりにすると、見えないように再び黒いスーツを身にまとい。今度こそ羽入家の出口へと向かった。もちろん、この状況で正門なんて仕えるはずが無いし、正門からだと次の柱へ向かう道には遠すぎる。
だから千坂は焼け落ちた羽入家の屋敷を脇目に壁沿いを進むと、隠し扉の場所に辿り着き、そこから羽入家を脱出するのだった。
はい、そんな訳でやっと更新できたわけですが……なんというか……随分とお待たせして申し訳ありませんでしたっ!!!
いやね、まさか十月にあんな事があるとは思いもよらなかったもので、一ヶ月ぐらい死んでましたっ!!! まあ、だから書き掛けの咎も遅くなったわけでして、決して私の意志で遅らせたわけではなく、事故と言える事態が発生したわけですよ、これが。
まあ、でも、こうして無事に第五章も上がった事だし、そこら辺は大目に見てくださいな。
というか、死んでた原因の一つとして叫びたい事があるんですよ。それは……秋はどこに行ったんだっ!!! というか、何だ一気に下がる気温はっ!!! これじゃあ秋を通り越して冬になったみたいじゃないかっ!!! そんな気候の変化に私の身体が付いて行けると思ったら大間違いだっ!!! その所為で何度死んだか分っているのか気候っ!!!
……とまあ、大自然に文句を言ってみたんですけど、意味ないですよね~。まあ、その他にもプライベートな事でちょっとした事があり、すっかり寝込む事になってしまいました。そんな訳で一ヶ月近く死んでた訳ですよ、これが。
さてさて、更新が遅れた理由を説明(言い訳)が終わったところで、そろそろ締めますか。
ではでは、ここまで読んでくださりありがとうございました。そしてこれからもよろしくお願いします。更に評価感想もお待ちしております。
以上、まさかこんなにも更新が遅れるとは、私も予想外でした。と一応自己弁護してみる葵夢幻でした。