第3話 正しさの代償 前編
※本話では、出産・育児に関するマウント、ならびに経済状況や教育環境を巡る比較描写があります。
あくまで登場人物たちの視点からの発言であり、実在の価値観を代表するものではありません。
「正しいことをしているはずなのに、報われない」
そうつぶやくとき、
人は自分を“被害者”にする。
けれど、
その“正しさ”が
誰かを傷つけていないと
言えるだろうか――?
その日のランチ会の店を選んだのは、桂子だった。
「最近はね。
こういう“無添加の薬膳ランチ”が体にも心にもいいのよ」
そう言って微笑む桂子の横顔は、どこか張りつめていた。
シンプルな麻のブラウスに、くすみピンクのリップ。
年相応に品があり、整った佇まい。
しかし可奈子は、ふと気づいた。
(桂子のイヤリング。片方だけ……揺れてない)
かつては小さなことにまで気が回る几帳面な桂子。
こんな初歩的なミスをするはずがない。
それが意味するのは──。
“心の余裕”がない。と、いうことだった。
「最近、忙しいのよ。姑がね、倒れちゃって。
ずっと義妹が面倒見てるのは知ってたんだけど。じつは離婚してたみたい。知らない間に……」
箸を置いて桂子が語り始めると、空気が少し重くなる。
「私がやらなきゃって思ってる。
だって、家族でしょう? 他に誰が見る?
うちはもう夫いないし。子どもだってまだ大学生よ」
一瞬、テーブルの上に沈黙が落ちた。
それを破ったのは、小百合だった。
「それって……義妹さんが介護するべきじゃない?
血のつながりだってあるし」
桂子が顔をしかめた。
「その義妹がね、寝たきりになっちゃったのよ。
脳出血で付随よ。怖いよね、ほんと」
「……え?」
全員が驚いたように顔を見合わせる。
「で、今はヘルパーと交代で私が行ってるの。
朝、弁当作ってから洗濯して。
そのあとコンビニの売上見て、それから……」
亜美がそっと小さくつぶやいた。
「桂子って、ずっと“ちゃんとしてる”よね……」
桂子はそれを“褒め言葉”だと思って、口元を緩めた。
「ありがとう。
でも、やるしかない。
誰もやってくれないから」
その言葉に、可奈子違和感を覚えた。
(“やるしかない”って言う人は……。
たいてい他人にも“やれ”って言いたいんだよね)
案の定、次の瞬間、桂子は小百合に目を向けた。
「それに比べて……。
小百合は自由でいいわよね。
家もない、子どももいない。
借金も片付いたし。
今が一番気楽なんじゃない?」
一見、羨ましそうな口ぶり。
だがその奥には、苦々しい感情がにじんでいた。
小百合は鼻で笑った。
「あたしは地獄見たからね。
桂子が“正しく生きてきた人”なら、あたしは“人として終わってた過去”がある。
今さら比べても意味ないでしょ」
その言葉には、明確な一線があった。
そして、誰よりも痛烈なマウント返しでもあった。
「……比べてなんかないわよ。
ただ、そういう“自由”って誰かの犠牲の上に成り立ってるのよね」
「それ、誰のこと言ってんの?」
「あなたの娘さん、元夫の家にいるんでしょう?」
小百合の手が止まった。
一瞬でテーブルの温度が下がる。
「……関係ないでしょ、今さら」
「関係あると思うけど。
母親が捨てたっていう記憶は、子どもには残るのよ」
その瞬間、ガシャッと音がして、亜美がスプーンを落とした。
「あっ!
ごめんなさい……ちょっと……」
亜美が席を立ち、トイレに向かう。
その背中はどこか震えていた。
残された菜津がそっとフォローに入る。
「桂子、それって少し言いすぎじゃない?
小百合も頑張ってきたんだし」
「頑張るって言うなら、私だって頑張ってるわよ。
家族の面倒見て、仕事して、子どもの将来背負って。
それで“報われない”って言うなら、何をどうすればいいの?」
桂子の目が潤んでいた。
怒っていたというより、むしろ“誰かに認めてほしい”と叫んでいるようだった。
可奈子はその表情を見て、心の中でつぶやいた。
(桂子も、きっと限界なんだ…)
けれど、正しさの仮面は彼女を縛っていた。
“ちゃんとしてる人”を演じ続けるために、桂子は今日も誰かを傷つける。
それが“善意”という名の毒であることに、まだ気づかぬまま──。
人を刺すのは、
悪意だけとは限らない。
時に“正義感”こそが、
一番鋭いナイフになる。
後編では、
可奈子が桂子に向き合い、
“正しさ”の本質に揺さぶりをかけていきます。