表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

6/17

 第3話 正しさの代償 前編

※本話では、出産・育児に関するマウント、ならびに経済状況や教育環境を巡る比較描写があります。

 あくまで登場人物たちの視点からの発言であり、実在の価値観を代表するものではありません。




「正しいことをしているはずなのに、報われない」


そうつぶやくとき、

人は自分を“被害者”にする。


けれど、

その“正しさ”が

誰かを傷つけていないと

言えるだろうか――?




 その日のランチ会の店を選んだのは、桂子だった。


「最近はね。

 こういう“無添加の薬膳ランチ”が体にも心にもいいのよ」


 そう言って微笑む桂子の横顔は、どこか張りつめていた。

 シンプルな麻のブラウスに、くすみピンクのリップ。

 年相応に品があり、整った佇まい。


 しかし可奈子は、ふと気づいた。


(桂子のイヤリング。片方だけ……揺れてない)


 かつては小さなことにまで気が回る几帳面な桂子。

 こんな初歩的なミスをするはずがない。


 それが意味するのは──。

 “心の余裕”がない。と、いうことだった。


「最近、忙しいのよ。姑がね、倒れちゃって。

 ずっと義妹が面倒見てるのは知ってたんだけど。じつは離婚してたみたい。知らない間に……」


 箸を置いて桂子が語り始めると、空気が少し重くなる。


「私がやらなきゃって思ってる。

 だって、家族でしょう? 他に誰が見る?

 うちはもう夫いないし。子どもだってまだ大学生よ」


 一瞬、テーブルの上に沈黙が落ちた。


 それを破ったのは、小百合だった。


「それって……義妹さんが介護するべきじゃない?

 血のつながりだってあるし」


 桂子が顔をしかめた。


「その義妹がね、寝たきりになっちゃったのよ。

 脳出血で付随よ。怖いよね、ほんと」


「……え?」


 全員が驚いたように顔を見合わせる。


「で、今はヘルパーと交代で私が行ってるの。

 朝、弁当作ってから洗濯して。

 そのあとコンビニの売上見て、それから……」


 亜美がそっと小さくつぶやいた。


「桂子って、ずっと“ちゃんとしてる”よね……」


 桂子はそれを“褒め言葉”だと思って、口元を緩めた。


「ありがとう。

 でも、やるしかない。

 誰もやってくれないから」


 その言葉に、可奈子違和感を覚えた。


(“やるしかない”って言う人は……。

 たいてい他人にも“やれ”って言いたいんだよね)


 案の定、次の瞬間、桂子は小百合に目を向けた。


「それに比べて……。

 小百合は自由でいいわよね。

 家もない、子どももいない。

 借金も片付いたし。

 今が一番気楽なんじゃない?」


 一見、羨ましそうな口ぶり。

 だがその奥には、苦々しい感情がにじんでいた。


 小百合は鼻で笑った。


「あたしは地獄見たからね。

 桂子が“正しく生きてきた人”なら、あたしは“人として終わってた過去”がある。

 今さら比べても意味ないでしょ」


 その言葉には、明確な一線があった。


 そして、誰よりも痛烈なマウント返しでもあった。


「……比べてなんかないわよ。

 ただ、そういう“自由”って誰かの犠牲の上に成り立ってるのよね」


「それ、誰のこと言ってんの?」


「あなたの娘さん、元夫の家にいるんでしょう?」


 小百合の手が止まった。


 一瞬でテーブルの温度が下がる。


「……関係ないでしょ、今さら」


「関係あると思うけど。

 母親が捨てたっていう記憶は、子どもには残るのよ」


 その瞬間、ガシャッと音がして、亜美がスプーンを落とした。


「あっ!

 ごめんなさい……ちょっと……」


 亜美が席を立ち、トイレに向かう。

 その背中はどこか震えていた。


 残された菜津がそっとフォローに入る。


「桂子、それって少し言いすぎじゃない?

  小百合も頑張ってきたんだし」


「頑張るって言うなら、私だって頑張ってるわよ。

 家族の面倒見て、仕事して、子どもの将来背負って。

 それで“報われない”って言うなら、何をどうすればいいの?」


 桂子の目が潤んでいた。


 怒っていたというより、むしろ“誰かに認めてほしい”と叫んでいるようだった。


 可奈子はその表情を見て、心の中でつぶやいた。


(桂子も、きっと限界なんだ…)


 けれど、正しさの仮面は彼女を縛っていた。


 “ちゃんとしてる人”を演じ続けるために、桂子は今日も誰かを傷つける。


 それが“善意”という名の毒であることに、まだ気づかぬまま──。



人を刺すのは、

悪意だけとは限らない。


時に“正義感”こそが、

一番鋭いナイフになる。


後編では、

可奈子が桂子に向き合い、

“正しさ”の本質に揺さぶりをかけていきます。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ