知らぬが仏の恋と嘘 —後編—
※このスピンオフには、不倫・隠し家族・浮気相手との関係継続など、倫理的にセンシティブな要素が多く含まれます。
登場人物の価値観はフィクションであり、現実の倫理観を反映したものではありません。ご注意ください。
あのカフェランチから一週間が経った。
菜津は、自宅のソファに沈み込んでいた。
薄いブランケットをかけていても、冷房のせいではない寒気が指先をかじる。
テーブルには出しかけの離婚届。
宛名も住所も書いたまま、署名欄だけが空白だった。
「結局、私って何だったの?」
自問しても答えはない。
海外の「正妻」はフィリピン人女性。菜津の夫とはもう10年近く前から関係があったという。
菜津との結婚は、いわば“日本での生活費調達”の方便だった、と分かった。
カメラマンというのも、自称でしかなかった。
実際は海外を行き来する“輸入代行業”が本業だった。
「そんなの、知らなかった。
見抜けなかった」
手元のアルバムには、子どもたちの写真が整然と並ぶ。
笑顔、誕生日、旅行先……全部、虚飾。
もしくは、菜津がそう思い込んでいた“幸せ”の演出だったのかもしれない。
携帯が鳴る。桃子からだった。
一瞬、迷う。だが、彼女は出た。
「……なに?」
「……会えない?」
桃子の声は、珍しく湿っていた。
明るさも冗談も、何もない。
ただの人間の声。
菜津は何も言わず、通話を切った。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
午後。桃子の自宅近くの公園。
蝉が耳を割るように鳴く中、ベンチに座る菜津と桃子。
桃子は缶コーヒーを差し出す。
「なんで私に、会いたいなんて言ったの?」
「……ちゃんと、謝りたくて」
「もう、謝ったじゃない。
あの日、あの場で」
「うん……。
でもね。私、自分が何してたか。
あとでやっと分かったの」
桃子の声は静かだった。
菜津がふと横を見ると、桃子のネイルは剥がれかけ、アイラインも引かれていなかった。
あの“完璧な恋愛モンスター”の面影は、少しだけ後退していた。
「私ね。
誰かの旦那を奪ってるっていう背徳感に酔ってただけなんだよね。
恋愛じゃなくて、優越感?
なんか、勝った気でいた」
菜津は何も言わず返さない。
ただ視線を前に向けている。
「でね、気づいたの。
好きだったのは、あんたの旦那じゃなくて“あんたの持ってるもの”だった」
桃子が言い終えたとき、蝉の声が一瞬遠のいたような気がした。
「……知ってたよ、そんなこと」
「……うん。
あんた、そういうとこあるもんね」
二人は、薄く笑った。
だが笑顔の温度は違った。菜津の笑みは乾いていた。
桃子のそれは、少しだけ泣き顔に近かった。
「で……?
あの人とは、どうすんの?」
「……今日、署名した。
私から切った。あんな人、要らない」
「……そっか」
「でもね、思ったの。今さらだけど。
私って、ずっと他人の目ばっか気にしてたんだなって。
写真映りとか、SNSのいいねとか。
ほんとは、子どもたちの寝顔だけ見てればよかったのに」
「気づくの、遅かったね」
「ほんとにね」
二人の間に沈黙が落ちた。
やがて桃子がポツリと呟く。
「……私ね。
しばらく恋愛やめるんだ」
「は?」
「冗談で言ってるんじゃないの。ほんとよ。
子どもも独り立ちしたし。
私ね。自分のこと、ちょっとだけ整理したい」
菜津がゆっくり桃子を見た。
桃子はまっすぐ前を向いていた。
自分の人生を、はじめてまっすぐ見ようとしている人の顔だった。
「……じゃあ、何すんの?
修行でも行くわけ?」
「いやぁ……。
今さら。で、ありながら?学校行こうかなと思ってる。
介護の資格とか。
ほら、私の母親そろそろヤバそうだし」
「……あんたが介護?!」
「やめてよ〜。
ひどいな〜人を何だと思ってたのよ」
「恋愛モンスター」
「ひどっ!」
2人の笑い声が、蝉時雨の中に吸い込まれていった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
後日。
菜津は、都内の小さなアパートに引っ越した。
そこに広いリビングも、映えるキッチンもない。
ただ、静かだった。
子どもたちは週末に来るだけで、今は一人の生活だ。
SNSの更新は止めた。
写真も消した。
菜津は、何も“見せない”人生を初めて選んだ。
一方の桃子は、地域の介護講習に通い始めた。
最初は冗談半分だったが、意外とハマっている。
最近では、恋愛の話を自粛していた。
職場のグループLINEでは「タメになる豆知識」ばかりを送っている。
「老後の桃子が一番まともじゃん」
可奈子が苦笑したのは、最新のランチ会でのことだ。
菜津はその日来なかった。
もう来ないかもしれない。
けれど、誰も責めなかった。
人生は続く。
それぞれに形を変えながら。
傷ついて。
奪って。
奪われて。
気づいて。
それでも歩いていく。
ランチ会は、今日も誰かの“いない”席を囲んで続いている。
恋に生きる女と、
恋に縛られた女。
どちらが幸せかなんて、
当人にも分かっていないのかもしれません。
これは、
嘘の上に築かれた幸せの、
その後の おはなし
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ここまで読んでくださってありがとうございました。
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