スピンオフ 知らぬが仏の恋と嘘 —前編—
※このスピンオフには、不倫・隠し家族・浮気相手との関係継続など、倫理的にセンシティブな要素が多く含まれます。
登場人物の価値観はフィクションであり、現実の倫理観を反映したものではありません。ご注意ください。
あれから数ヶ月が経った。
7人のランチ会は表向きこそ和やかに続いていた。
しかし水面下では、さざ波どころか渦潮が巻いていたのだ。
場所はおなじみの駅前のカフェレストラン。
アイボリーのカーテン越しに陽が差し、ほんのり甘いパンの香りが店内を満たす。が、その空気はいつも以上にどこか湿っている。
いや、濡れているのは誰かの心か……。
「ねぇ聞いてよ、また告られちゃってさぁ」
桃子が満面の笑みで言ったのは、アフォガートをひと口すする直前。
長いまつげを伏せるようにウインクしながら、アイスクリームの溶けかけた表面をスプーンでくるくるとかき回す。
「……また?」
可奈子が呆れとも冷笑ともつかぬ笑みを浮かべる。
菜津は苦笑い。だが目は笑っていない。
紅茶のカップに手を添えた指先が、微かに震えているのを可奈子は見逃さなかった。
「どこの誰よ、今度は?」
小百合がいつものように口を挟む。
彼女だけは桃子のこういう話を面白がって聞く数少ない人物だ。
「えーっとね。
近所の接骨院の先生。
カラダのこと、すごーく詳しくてさ♡」
「アンタそれ、もはや診察じゃないよね」
桂子がぴしゃりとツッコミを入れるも、桃子は馬耳東風。
笑いながら自分のスマホを取り出し、通知を確認してまたクスクスと笑う。
「……で?
あの話、結局どうなったの?」
ぽつりと可奈子が言った。
「あの話」とは──。
前回のランチ会。
桂子が唐突に暴露した、菜津の夫が“桃子と関係を持っていたのではないか?”という噂。
そして、菜津の夫の謎の海外出張。
菜津は沈黙したままカップに目を落とす。
その表情からは、いつものリア充アピールの余裕が剥がれ落ちていた。
「……なんか、さ。
マレーシアに単身赴任って言ってたでしょ?
あれね、出張じゃなかったの」
「え?」
亜美が珍しく口を挟んだ。
店の奥で赤ちゃんをあやす母親をぼんやり眺めていたのに、思わず身を乗り出してしまう。
「赴任先に、奥さんがいたのよ。
現地妻じゃなくて、正式な“妻”だって。
戸籍上は日本でも重婚じゃないのに、向こうでは“入籍済み”なんだって。
……どういうことなのよ!」
声が少し震えていた。
菜津の感情は、怒りというより混乱に近い。
可奈子は菜津の手首にそっと触れる。
細いが震えは止まらない。
「え、えー?
何それ?海外ドラマ?」
桃子が口を開いた瞬間、全員の視線が刺さった。
「……え?うそ。
ちょっと待って。
私、ホントに知らなかったよ?」
桃子の表情が一変する。
目を見開き、まるで子どもが叱られた時のような声音になる。
「桃子ー。アンタ……」
桂子が低く言う。が、可奈子が軽く手を上げて制する。
「私も察しては……い、た、んだけど。
まさか向こうに妻がいるとは思わなかった」
「察してって……」
菜津が呆然と呟いた。
「たぶんね。
桃子の話に出てくる“歯が白くてスタイルが良くて。
ネクタイのセンスが変で、でも手の甲の血管がキレイな人”って人?
それが菜津の旦那さん。間違いないと思う」
沈黙。
カフェのBGMが、なぜか昭和のバラードに変わっていた。
タイミングが悪いくらいに切ない女声のサビが流れ、妙に場が冷える。
「私、知らなかったのよ。
菜津。本当に、ごめん……」
桃子が、はじめて泣きそうな声を出す。
「嘘でしょ……。
何も知らなかったのに、私……。私は……」
菜津の唇が震えた。が、次の瞬間、きっぱりと言った。
「でも、私も気づいてたの。
気づかないフリしてただけ。
桃子。あなたが悪いわけじゃない。
悪いのは、あの男よ」
桃子は顔を上げ、菜津もまた、泣かないように顎を上げた。
「で……。どうするの?」
可奈子が、誰にも向けずに言う。
「どうもしないよ。
私たちって、なんだかんだで、壊れそうで壊れないよね。 泥だらけでも、まだランチ食べてるし」
小百合が笑って言った。
「ほんと、よく食べるわよねアンタたち」
桂子が苦笑しながらも、コーヒーをすする。
「そろそろスイーツでもいこっか♡」
桃子が手を上げ、店員を呼ぶ。
カフェの空気はいつもと変わらず。
だけど7人の胸には、それぞれの痛みが、静かに沈殿していく。
後編では、
菜津が決断を下す場面と、
桃子が意外な行動を取る展開を描きます。




