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     静かなる余波 後編

※本話では、人間関係の崩壊、離婚、暴露、家庭破綻、精神的ショックを伴う描写があります。

 特に恋愛や信頼関係に敏感な方はご注意の上お読みください。


 

「……うちの店。

 閉めるかもしれないの」


 美知子のその言葉は、突然すぎて一瞬全員が理解できなかった。


「え?

 何、どういうこと?」


 最初に反応したのは桂子だった。

 眉を寄せて美知子を見つめる。


「商売、順調だったんじゃなかったの?

 地元密着の和菓子屋さん、テレビでも取り上げられてたでしょ?」


「そう思ってたのは、私だけだったみたいで……」


 美知子の口調はいつになく静かだった。

 ランチ会ではいつも穏やかな聞き役だった美知子。

 その彼女が、うつむきながら続けた。


「夫ね、黙って借金作ってたの。

 何年も前から。

 生活費の足りない分、ずっと消費者金融で補填してたみたいで……」


 ざわつく空気の中で、桃子がつぶやいた。


「まさか……。

 連帯保証人とか……?」


「ええ、私。

 気づかなかったのが、情けない。

 帳簿も任せきりだったし……。

 息子には言えてない。娘には……なんとなく察されてるかも。

 最近、距離を感じるから」


 誰もが息を呑んだ。

 マウントを張り合うことで成り立っていたこの集まりの中で、美知子の告白は重すぎる。


 それまで菜津と桃子の修羅場だった空気が、音もなく深い沈黙に塗り替えられていく。


「もう、どうしたらいいのか……。

 生活、どうやって立て直すかも分からない。

 でも……。不思議なんだ」


 美知子は、微笑んだ。

 消え入りそうなその笑みは、諦めではなく、何か吹っ切れたような穏やかさを伴っていた。


「いろんなことがなくなっていく感じがするのに、心の中だけ、妙に静かで。

 『あぁ、もう誰と比べる必要もないんだ』って思ったら、ちょっと楽になった」


 その言葉が、場にいた全員の胸を突いた。


 比べてばかりの人生だった。

 結婚。

 出産。

 収入。

 家。

 旅行。

 パートナー。

 子供の学歴。

 老後の準備……


 何をとっても、“他人との比較”が人生のベンチマークになっていた。


——私は誰より幸せか。


——あの人には負けたくない。


——あの人だけには知られたくない。


 そんな思いが、今や粉々に砕けて、静かな破片だけがテーブルの上に散らばっている。


 すると、菜津がぽつりと呟いた。


「私……。

 全部がバレたら、どうなっちゃうんだろ」


 誰も返さない。

 桃子さえも下を向いたまま、グラスの氷をスプーンでかき混ぜている。


「家族を……守ってきたつもりだったの。

 でも、自分が『良い人生』を演じたくて、夫にも娘にも、無理させてきたのかもしれない」


 菜津の言葉は、告白というより独白だった。

 演じてきた人生の台本を、今さら破っても遅いと知りながら。それでも一言ひと言を口にしていく。


「旅行も、ブランドも、全部見せるためのものだった。

 SNSの“いいね”に追いかけられてた。

 リア充ごっこ、ってやつね」


 可奈子は、そんな菜津を見つめていた。

 菜津が「虚像」の殻を破ったこの瞬間。彼女の姿は不思議なほど小さく、そして、同時に人間らしかった。


 小百合が、また口を開いた。


「いいじゃん。

 今さらでも、気づけたんだから。

 あとは自分の人生、やり直すだけだよ」


「……できると思う?」


「さぁね。

 でも、やってる人はいる。

 ほら、目の前にも」


 そう言って、小百合は可奈子を見た。


 全員の視線が、可奈子に向かう。


 可奈子は、静かに微笑んだ。


「……私、結婚もしなかったし、子どももいない。

 ランチ会の皆から見たら、“何も持ってない人”だったかもしれないね」


「そんなこと……」


 桂子が口を挟もうとするも、可奈子は、ゆっくり続けた。


「でもね。

 20代で周りが結婚していって、30代で“女の人生は結婚してナンボ”って空気に疲れて。

 人の目をごまかしながら、ずっと旅してたの。

 一人でね。

 誰にも気を使わず、自分の時間だけを生きる旅。

 名もない温泉街で朝日を見たり。

 小さな町のパン屋で焼きたてパンを頬張ったり。

 神社の境内で木の葉が揺れるのを見て……ふふっ、泣いたり……」


 誰も言葉を挟まなかった。

 ただ、可奈子の言葉がゆっくりと降りてくるのを聞いていた。


「そういう時間が、私にとっては“人生”だったの。

 誰と比べる必要もなくて、誰に見せる必要もなかった。

 だから今、後悔はないよ」


 その瞬間、菜津の目に、涙が光った。


 そして、桃子がそっと可奈子に言った。


「……あんた、ずっと気づいてたのね。全部」


 可奈子は笑った。


「うん、知ってた。

 けど、言う必要もなかった。

 誰かを責めたって、自分の人生が変わるわけじゃないし」


——だから私は、共感だけを武器に、ただ笑ってきた。


 桃子が、そっとハンカチで目を押さえる。

 菜津が、深く俯いたまま「ありがとう」と呟く。


 その瞬間、7人の間にあった長年の“見えない鎖”が、静かに解けた気がした。


 もう、勝ち負けなんてどうでもいい。


 本当に欲しかったのは「羨ましがられる人生」ではない。

「心が穏やかでいられる居場所」だ。


——それに気づいた瞬間から、人生は、やり直せる。


 ランチ会が終わり、夕暮れが迫るカフェを出た可奈子は、ふと空を見上げた。


 西の空に、ひとすじの飛行機雲がのびていた。


「さて、次はどこへ行こうかな」


 可奈子は小さく笑った。

 そして、バッグの中から旅のノートを取り出した。


 終わったように見えた一日が、実は新しい旅の始まりだった。



  (完)



誰かが失ったものは、

誰かにとっての救いだったのかもしれません。


物語は終わったわけではありません。


それぞれの「これから」は、

静かに始まりました。


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