沈黙の主役 後編
※本話では、不倫・浮気・裏切りに関する直接的な描写が含まれます。
また、人物の価値観や関係性の崩壊が進行します。倫理的に不快な場面もありますのでご注意ください。
「ねえ。可奈子って——
さみしくないの?」
菜津のその言葉に、空気が数秒止まった。
まるで、テーブルに置かれたガラスのポットが一瞬で凍ったかのように。
「え、さみしい?」
可奈子が首を傾げて笑う。
反射する午後の日差しが、彼女の輪郭をやわらかく浮かび上がらせる。
「だって、結婚もしてないし。
子どももいないし。
一人で旅行する、とか……。
私にはちょっと考えられないなぁ」
菜津の笑みは、つくりものの柔らかさで包まれていたが、その奥には確かなトゲがあった。
だが、そのトゲは可奈子の表情には何の傷もつけない。
「私はね。
一人でいることに寂しさを感じたことって、実はあんまりないのよ。むしろ、人に合わせるのがちょっとしんどくなった時期があってね」
可奈子はティーカップをそっと置く。
小さな音が静かに響いた。
「そんなふうに思えるの、ほんと強いわー。
私なんて、子どもがいない人生とか想像つかないもん」
桃子が合いの手を入れるが、そこにはどこか焦りのようなものが混じっていた。
「ねえ、可奈子。老後どうするの?
誰も面倒見てくれないわよ」
桂子が口を挟む。
正論のつもりだったのだろうが、その言葉にはどこか苛立ちが含まれていた。
“私には夫も子もいたのに、今こんな状況なのは不公平だ”
そんな声が透けて見えるようだ。
「老後ね……。
まあ、その時に考えるわ。
今のところ、会いたい人には会って、行きたいところには行ってるから」
「そんな悠長なこと言ってて、いざって時に誰も助けてくれないわよ。
頼れる人間は、必要だよ」
桂子の声に亜美がうなずく。
「ほんとよ。
うちは子ども8人もいるから……。誰か一人くらいは助けてくれるでしょ、たぶん」
「助けてくれるって、言うより……」
小百合がぽつりと呟いた。
「今、誰も助けてくれない私が言うのもなんだけど。
子どもに頼るのって、ちょっと違うような気がする」
静かに、場が沈む。
「可奈子は——強いよ。
何も持ってないようで、全部持ってる」
亜美が突然そう言った。
「え?」
全員の視線が彼女に集中する。
「だってさ。
可奈子って、自分で自分を満たせるじゃない。
誰かに認めてもらわなくても、生きていけるでしょ?
私、あんたに勝ったと思ったこと、ないもん」
沈黙。
「ふうん……」
菜津が笑う。
「でも、人生って“勝ち負け”じゃないよね?
比べること自体がナンセンスだわ」
「それを一番やってるの、あんたじゃん」
小百合の遠慮ないツッコミに、菜津が鋭く睨みを利かせるが、すでに場の流れは変わっていた。
「ねえ、可奈子」
桃子がぽつりと問う。
「ほんとのところ、今幸せ?」
可奈子は、ゆっくりと微笑んだ。
何かを包み込むような、そしてどこか祈るような笑みだった。
「うん、幸せ。
こんなふうに、あなたたちとまた会えたし」
その瞬間、誰かが深く息を吸い、誰かが目を伏せた。
人生のあらゆる選択の帰結が、ひとりの女性のシンプルな言葉に打ち消された。
誰もが自分を誇るために。
誰もが彼女にマウントを取りたがった。
けれど。
彼女は誰のものさしでも測れない場所にいた。
それは、孤独でも、虚しさでもない。
ただ、自分だけの場所だった。
ランチ会は静かにお開きとなった。
午後四時。
コーヒーの香りが消え、席を立つ者たちの後ろ姿には、それぞれ違う重みが宿っていた。
ひとり残された可奈子は、誰にも言わなかった次の旅の予定をスマホで確認した。
来週は、飛騨高山。
その次は、屋久島。
「さて……。
そろそろ、紅茶のおかわり、もらおうかな」
誰に言うともなく独り言をつぶやいて、可奈子はベルを鳴らした。
その音は、静かに。
しかし確かに、新しい人生の扉を開く音だった。
この中に、
まだ誰も知らない
「裏切り者」がいる。
それぞれが持ち帰った“ざらつき”が
波紋のように広がっていきます。
そして、
ある一人の転落劇と、
誰も気づかなかったある事実が
明るみに出ていきます。
次回、
誰かが堕ちる音がします。




