母という名の誇り 後編
※本話には、夫婦間トラブル、秘密の過去、家庭内のもつれに関する描写が含まれます。
また、口喧嘩や明確な対立の場面が出てきます。人物同士の緊張関係にご注意ください。
今話では、
亜美の“誇り”に刺激され、
他の女たちが
心の奥をさらけ出していきます。
静かに語られるAの言葉が、
ランチ会に一石を投じることに──。
「……で、亜美のとこは、何人が成人済み?」
菜津がアイスティーの氷をカランと鳴らしながら訊ねた。
その声色には、探るような棘と、負けたくないという焦りが滲んでいる。
「成人したのは上の3人。
就職して、上京してる子もいるよ。たまに帰ってきて、家のこと手伝ってくれたりもする」
亜美はさりげなく言ったが、その“何気なさ”が逆に痛い。
「いいなぁ。手伝ってくれる子がいて……。
うちは2人ともスマホばっかり。
言っても『うるさいな』って返ってくるだけ」
桂子がぽつりと言った。
それに小百合がすかさずかぶせる。
「うちはもう、最初から子どもいないようなもんだったからね。
まぁ、仕方ないって諦めたけど……。
たまに夢見るんだよね。あの子たち、もし今そばにいたらって」
菜津が、ちょっと笑った。
「やだ、今日はみんな詩人みたいじゃん。
どうしたの?」
「亜美が来ると、みんな急に母親スイッチ入る」
桃子がそう言って、アイスコーヒーのストローを噛む。
その顔は笑っていたが、どこか曇っていた。
可奈子は何も言わず、目の前のポットに紅茶を足す。
ふわりと香ったアールグレイに、心を落ち着かせるように鼻を近づけた。
亜美が静かに口を開いた。
「でもさ……、正直、今が一番怖いよ。
上の子たちが離れて、下の子も手がかからなくなって……。
“私”って何だったんだろうって考えちゃうの。
母であることに全振りしてきたから、もし“母”が終わったら、私はどうするんだろうって」
その言葉に、全員が顔を上げた。
まさか、“最強の母”がそんなことを言うとは誰も思っていなかった。
可奈子はカップを置き、ゆっくりと言った。
「亜美は、母でいることで自分を保ってきたんだよね。
私は逆だったな……。
“誰かのもの”になるのが怖くて、“自分”にしがみついて生きてきた」
静かに、けれどはっきりと。
「子どもを持たなかったのは、怖かったから。
自分を壊せなかった。
きっと、亜美とは真逆なんだと思う」
一瞬、沈黙が流れた。
亜美は、可奈子を見つめたまま、少し微笑んだ。
「でもさ、可奈子って、誰よりも“他人の話”聞けるよね。
うちの子どもたち、可奈子に相談してるでしょ。私には言わないのに伝えてたりしてたの。
実は知ってたんだ」
可奈子の眉がわずかに動く。
「……え、何それ……。
知らなかった」
「言ってなかったもん。
たぶん可奈子は、自分で思ってるより“育てる力”あると思うよ」
「そうそう!
昔から、誰の話でも真面目に聞いてくれてた!」
小百合がうんうんと大げさに頷く。
「私、借金返済してるとき、可奈子に泣きついてたじゃん?
あれがなかったら、多分逃げてた」
「……あたしも」
桂子がポツンと呟いた。
「夫が亡くなって、毎日が砂を噛むみたいだった時期。
可奈子が言ってくれたの。
“苦しくても、生きてることって偉いよ”って。あの言葉、支えになった」
──なにこれ、急に感謝タイム?
菜津は言いそうになった。
しかし、その言葉を飲み込んだ。
誰かを持ち上げる空気に加わるのは、彼女にとって敗北のように感じるから。
桃子は黙っていた。
(可奈子って……。そういうとこ、あるのよね。
恋バナには乗ってこないけど。
いつのまにか、一番大事なとこ見てる)
ふと、菜津が何かを思い出したように言った。
「……ねぇ、可奈子って最近どこか旅行行った?
SNSとかもやってないよね?」
可奈子は肩をすくめた。
「国内だけど、月に一回くらいは。
先月は高山に。温泉入って、美術館巡って。あとは町家カフェで抹茶ケーキ食べて……。って、そんな感じ」
「えっ……ひとりで?」
「うん」
亜美が、感心したように言った。
「すごい……。私、たぶん、家族がいなかったら、そういうの行けないかも。
自分の時間って、どうしていいかわかんなくなりそうで」
可奈子はティーカップを持ち直し、にっこり笑った。
「ひとりでいるのって、慣れると自由すぎて戻れなくなるよ」
その言葉は、誰にも向けられていないようで、誰の胸にも刺さった。
まるで“静かな勝者”のような可奈子の佇まいに、場の空気が再び変わった。
そんな、瞬間──
「ねぇ……今さらだけど。
誰かさ、“菜津の旦那が浮気してる”って話、聞いたことない?」
桃子の声だった。
一同、目を見開く。
「……は?」
菜津の表情が凍りつく。
「な、何それ……。
誰から聞いたの?」
「いや……うちの職場の子がさ、菜津の旦那さんを“ナンチャラってバー”で見たって言ってて。
相手、若い女の子だったんだって」
空気が一気に凍りつく。
全員が一斉に菜津を見る。
菜津の顔から、さっきまでの自信が剥がれ落ちていくのが分かる。
桃子はわざとらしく言った。
「ま、あたしは信じてないよ?
でもちょっと気になってさ〜」
可奈子は、何も言わなかった。
ただ、菜津の震える指先にだけ、そっと目を落とした。
(そうか……。
桃子は気づいていない。
菜津の夫の相手が、自分だってことに)
言葉は凶器にならずとも、
余韻が毒になる。
思わず笑ったその裏に、
誰かの嘲笑と涙があるかもしれません。
……そろそろ、
表情と本音の乖離が加速してきます。
“母であること”の誇りと、
その裏に潜む喪失感。
静かなAの存在が、
ランチ会の均衡を揺らしていきます。
そしてついに、
裏切りの火種が投下されました──!
次回は、
菜津が“真実”に直面します。
すべてを壊すのか、
目を逸らすのか。
崩壊の兆しが近づきます。




