第7章 侍従アルト視点(2)
俺達の乗った馬車は馬の暴走で崖から落ちて、一旦大樹に引っ掛かってからの大岩の上に落ちて、崖下まで落ちることはなかった。
私達は大怪我をしていたが簡単な応急処置をしてから二日をかけて崖下まで降りた。そして川沿いを進んで、どうにか民家まで辿り着くことができたのだった。
しかし、俺達の怪我はかなり酷かった。止血をし、骨折した部分には添え木を当てて応急処置はしていたものの、本格的な治療が遅れたために、リハビリして普通の日常生活が送れるようになるまで一年もかかってしまった。
俺達は助けてもらった村では駆け落ちした恋人同士だと思われていた。そしてこちらが何も言わなくても皆さんは訳ありだと察して、身元を詮索したり役人に通報したりすることもせずにいてくれた。
大分前に借金苦で領主が逃げ出してからこの村は国の直轄地になっていて、管理もかなりいい加減らしく、村の人達もその辺は気にしないらしい。
俺は名前をオルトンと変えた。そして命を助けてもらった上に、事情も聞かずに村に置いてくれたことに感謝し、少し動けるようになると、自分のできることを可能な限りやらせてもらうようになった。それはリハビリにもなって一石二鳥だった。
そしてそのうちに俺は、いつの間にか村長の仕事を手伝うようになっていた。
実は以前からフォーラ伯爵の仕事を執事の下で手伝っていたのだ。しかし、孤児の侍従に執務を手伝わせていると人に知られるのが嫌だったのだろう。タウンハウスの執事からそろそろ従者から執事見習に格上げしたらどうかと意見されても、伯爵はそれを無視していた。
ところがお嬢様にお子様が出来て、執務をするのが大変になると、わざわざ俺に変装させて、執事見習いとして領地へ送り込んだのだ。嫌がるお嬢様を無理矢理に結婚させたくせに、今頃になってジュリアンの経営手腕に不安を抱くようになったらしい。
実際ジュリアンは実務経験が少ない上にやる気がなく、一向に仕事を覚えなかったからだ。
俺は傾きかけた領地の立て直しに成功した。さすがに俺の力を認めざるを得なくなった伯爵は、俺を領地の執事見習いにして、いずれキャスリンお嬢様を支える執事にするつもりだ、と初めて口にした。
執事に昇格したからってお嬢様との身分差が縮まるわけじゃないし、そもそもお嬢様は結婚している。だから特別な感慨はなかった。
それでも、お嬢様の傍で堂々と手助けができる立場になれることは嬉しかったし、ローリス様の成長を近くで見届けることができることは夢のようだとも思った。
それに伯爵の俺に対する信頼度が高くなれば、もしかしたら二人を離婚させることができるのではないか、という微かな希望も抱いていた。
ジュリアンの不正や数多の女性問題などの証拠を集めてそれを提示できれば、彼の本性をわかってもらえるのではないかと。しかし間に合わなかった。
その準備を進めている途中で、俺達は命を狙われてしまった。まさか彼がこんなに早く行動に移すとは思っていなかった。
決してキャスリン様の言葉を信じなかったわけではなかった。ただローリス様がもう少し大きくなってからだろうと、勝手に都合よく良く思い込んでいたのだ。父親がまだ物心もつかない子供から母親を奪おうとするなんて、普通そんなことは考えないじゃないか!
人殺しの下にあの子を置いていることを考えると、気が狂いそうになる。
あの男が絶対にキャスリン様の息子に手を出さないことはわかっているのだが。今の俺にできることは一日でも早く体を治すこと。そして親友のフローラがあの子を守ってくれることを祈ることだけだった。
ではキャサリン様はどうしていたのかというと、最初は村の子供達に文字や計算などを教えていた。しかしそのうち大人達にも様々な要望をされて、刺繍や行儀作法、簿記や契約書の作り方なども指導するようになっていた。
彼女の教え方はとても丁寧で分かり易かったため、みんなから感謝され、村人達から『キャッシー先生』と呼ばれ慕われるようになっていた。
しかし、時々知り合いの赤ん坊を抱きながら涙ぐみ、教え子を見つめながら悲しそうな顔をしてじっと見つめていることがあった。
意識を取り戻した時、俺は最初からフォーラ伯爵家に助けを求めようとはしなかった。
何故ならキャスリンお嬢様は事故のショックで記憶を無くしてしまっていたからだ。
キャスリン様が記憶を無くしたことは却って良かったのかも知れないと、今では俺は思っている。俺でさえこのじれじれした状況に苦しんでいるのに、もし真実を知ったら彼女では耐えられないだろうと思うからだ。
しかし、俺は女性というか母親の体の神秘を知らなかった。それ故に記憶をなくしていても、彼女が何となく自分には子供がいたことを感じていて、切ない思いをしていたことに気付けなかった。
俺達二人を殺そうと直接手をかけたのは御者のオットーだった。しかし、命令したのは彼女の夫のジュリアンだった。
狭い山道で急に馬車を停止させたオットーは、馬に激しく鞭打つ直前に、
「恨むならジュリアン若旦那にしてくれよ! 俺は命令されただけだからな!」
と笑いながら言ったのだ。だからといってそれを鵜呑みにするのは危険だが、結婚前にもしかしたら私はあの男に殺されるかもしれないと彼女が言っていたので、その可能性は高いと思った。
そして御者に手を貸したのは、途中で体調が悪いと言って馬車から降りたお嬢様付きのメイドのカレンだろう。そうアルトは確信していた。そのメイドがジュリアンの結婚前からの愛人だったことは俺も知っていたからだ。
(用心はしていたのだが、まさかこんなに早く仕掛けてくるとは思わなかった。俺が付いていながらこんなことになるなんて。お嬢様、すまない!)
馬車が傾く直前に俺はキャスリン様の頭と背を強く抱き締めた。馬車ごと崖から落ちて一度大木か何かにバウンドしてから大岩の上に落ちた時も彼女を離さなかった。
そのため、彼女の頭部はどこにもぶつからず無事だったはずだ。手足に骨折や切り傷は負っていたが。
それでも精神的ショックはかなり大きかったのだろう。崖下の岩の上で目が覚めた時、彼女は一言も発しなかった。痛いとさえ。
そして簡単な緊急処置をして、人の住む集落にようやくたどり着いた瞬間、気が緩んだ俺達は気を失い、三日後に目を覚ましたときには、彼女は記憶を無くしていた。
キャスリン様の記憶が無い以上、俺一人がジュリアンを主犯だと訴えても、それを信じてもらえるとはとても思えなかった。証拠になるものが何一つなかったのだから。
それにあの男はとにかく善人の演技が上手い。女性だけでなく男性からも信頼されている。そんな人気者と一介の侍従のどちらを信じるのか、そんなことはわかりきっている。
ジュリアンはこの日のためにずっと良い夫、良い義理の息子を演じてきたのだろう。フォーラ伯爵夫妻は完全に彼を信用しきっていた。まあ執務能力には不安視していたが。
これらの状況鑑みてすぐに領地に戻るのは無理だと結論を出した。それに再び命を狙われる可能性が大きいし。いや、間違いなく狙われるだろう。
そうなれば、記憶の無い彼女では対処しようがない。彼女の両親や屋敷の執事や侍女長もとても役に立つとは思えないし。
まあ、カローディアお嬢様と侍女のフローラは信用できるし、頭が良いこともわかっているが、いかんせん二人はまだ若いし力が足りない。
それに彼女達をも危険にさらしてしまう恐れさえある。だから今は頼ってはいけないと思った。
とにかく自分達の体を自由に動かせるようになるまでは、身を隠すのが一番だと俺は決意した。下手に行動を起こすのはまずいと。できるだけ早く体の機能を元に戻そうと、俺達は必死にリハビリに励んだ。
ところが完全に復調するまでになんと一年も要してしまった。特に俺は元々身体を鍛えていたにもかかわらずだ。まあ、お嬢様を守ろうとして少々無理をし過ぎたせいもあったのだろうが。
そしてこの村で過ごすようになって、間もなく一年が経とうとしていたある日のこと。前触れもなく突然、キャスリン様が私を背中からギュッと抱きつきながらこう言った。
「きちんと式は挙げたのかどうかはわからないけれど、わたし達は夫婦なのよね? それなのに、何故オルトンは手を繋いで抱きしめるだけなの?
最初は怪我をしているからなのだと思っていたけれど、キスもしてくれないのはなぜ? 夫婦だったというのは嘘だったの? まだ恋人同士だったの?
記憶を無くす前のことはわからないけれど、駈落ちをしたくらいなのだから、私達は愛し合っていたのでしょ? 記憶を無くした今も私は貴方が好きよ。愛しているの。でも貴方はどうなの? 私を愛していないの?」
俺はキャスリン様に抱きつかれ好きと言われて、不覚にも泣いてしまった。
そしてとうとう真実を告げる時が来たのだと、俺は覚悟を決めた。だけど、俺達の関係をなんと説明すればいいのだろう。
名門伯爵家の跡取りお嬢様と彼女の父親の侍従。乗馬やダンスの教師と生徒。次期女当主と執事見習い。はっきりしているのはただそれくらいだ。
だけど、俺にとって彼女は初恋の相手で、これまで愛した唯一の女性。しかもその思いは身分違いで許されないものだった。そして彼女が結婚してからは、それは誰にも悟られてはいけない禁断の愛だった。
そして彼女にとっても俺は初恋の相手で唯一の想い人だったらしい。しかし貴族の娘としてやはりその義務は背負うものだと、俺への想いは封印して結ばれぬ恋だと諦めていたと言っていた。
つまり俺達はお互い口にはしなくてもずっと両思いだったらしい。こういう関係をなんと呼べばいいのだろう?
心で思い合うだけでも、何人もの女性と関係を持つあの女ったらしと同じ汚れた関係なのだろうか?
その辺がよくわからない。
キャスリン様は今も昔も清廉な方だ。さっき俺にキスやそれ以上のとこを望んだのも夫婦、もしくはそれに准ずる関係だと思っているからだろう。
彼女は自分の身体にある妊娠線で、自分が子供を身籠った経験のあることに気付いていた。俺がそれを知ったのはつい最近のことだった。
そしてその子を亡くしたのだと彼女は思っているようだった。村の子供達に勉強を教えながら、何故か悲しい顔をしている時があったから。
彼女がそう勘違いしていることに気が付いて、俺の胸もジクジクと痛んだ。彼女の産んだ子が生きていることを知っていたからだ。
本当はもっと早くその事実を教えてやりたかったが、子供のことを知ったら、彼女は身の危険を顧みずに領地に帰ろうとしただろう。だから教えられなかった。
それに俺達二人の関係をどう説明していいのかもわからなかった。真実を知っても彼女は自己を保てるのか、肯定できるのか……それが不安でこれまで有耶無耶にしてきたのだ。
しかしこれ以上隠しておくことは無理だ。そう決意した俺は、その夜、彼女が無くした記憶について俺は知る限りことを全て話した。一切嘘をつくことなく、一晩中俺は彼女に語り続けたのだった。