第11章 第三者視点(1)……四年前の出来事
第11章 第三者視点(1)……四年前の出来事
記憶を喪失する以前のキャスリンは、貴族の娘として生まれてきた以上、政略結婚を義務だと思い受け入れようとしていた。
しかしそんな彼女でもあの婚約者だけはどうしても受け入れ難かった。
最初のうちは彼女も仲良くなろうと努力をしていたが、相手が全く歩み寄ろうとしなかった。キャスリンのこともそうだったが、婿養子に入るというのにフォーラ伯爵領について全く関心を持たなかったし。
ストレートな艶のある黒髪に、少し釣り上がり気味のペリドット色の瞳を持つキャスリンはとても美しい。しかし一見すると少し冷たく気が強い印象を与えてしまうのだ。
まるで少女のようにロマンティックなものが好きな脳内お花畑のジュリアンにとって、愛の言葉を囁いても頬を染めないクールな令嬢であったキャスリンは、完全に恋愛の対象外だった。
しかしキャスリンだって、彼の言葉にたとえ僅かでも真実が込められていたら、それなりの反応は返していただろう。彼女は見た目とは違い、恋愛事にだってそれなりに関心はあったのだから。
そんなジュリアンでも婚約した当初は、婚約者として最低限の交流は持とうとしていた。
ところが二年後輩である子爵令嬢と恋人関係になると、一切キャスリン様とは関わりを持たなくなったのだ。
学園には通わず領地にいるのだから婚約者にはどうせわからないだろうと、ジュリアンはたかをくくっていたのかもしれない。
しかし、二学年下にはキャスリンの幼なじみのローディス=オーダント伯爵令息が在籍していたことを、彼は知らなかった。
そのローディスによって最終学年の彼の行動は逐一報告されていたことも。
もっとも時々彼が恋人のエリミアと共にパーティーに参加しているという話は、わざわざ幼なじみから報告されなくても、巡り巡ってキャスリンの耳にも届いていた。
社交場は閉鎖空間の学園とは違うので、噂はあっという間に広まる。特にジュリアンは有名人なのだから。
そのため、キャスリンはたまに社交場に出ると、陰で嘲笑されていたのだ。
伯爵家とはいえ、この国建国時代からの名門フォーラ家の当主夫妻の前では、そんなあからさまな態度を取る者はいなかったが、キャスリンのことはまだ小娘だと侮っていたのだろう。
どうせなら両親の前で思い切り嫌がらせや罵倒してくれればいいのに、とキャスリンは思っていた。そうすればジュリアンの有責による婚約破棄ができるのにと。
そして婚約者が浮気相手とパーティーに参加し、その帰りに安ホテルへ行ったとか、公園や植物園へデートに出かけてそこでキスをしていたとか、それはもう色々な情報を耳にするようになってきたので、もうそろそろはっきりさせなくてはと彼女も思い始めた。
ちょうどそんな頃、とあるパーティーに珍しく婚約者と参加した時、彼女はついに婚約破棄する決意をした。
少し友人に挨拶してくると言ったまま、一向に戻って来ないジュリアンをモーランド侯爵夫人と共に探していたら、休憩室で見知らぬ令嬢と抱き合っているところに遭遇したのだ。
おそらく事後だったのだろう。二人の服には皺が寄り、髪が少し乱れていた。
決定的瞬間ではなかったが、これはどう考えても言い逃れはできないだろう。しかも証人がいる。
たしかにそんな穢らわしい場面に遭遇してしまったことはショックだったが、これで彼の有責で婚約破棄できるとキャスリンは心の中でガッツポーズをしてしまった。
しかしこれがまずかったと後になって彼女は思った。喜ぶよりまず嘆き悲しむべきだったのだと。
シルバーブロンドヘアーに水色の瞳の儚げな美少女に先に泣かれてしまった。
そのせいで、浮気相手は侯爵夫人の同情を買うことになったのだから。
その翌日、キャスリンはジュリアンの不貞行為による婚約破棄をしたいと父親に告げた。
娘の話を聞いたフォーラ伯爵はそれを聞いて腹を立て、すぐにジュリアンの両親であるモーランド侯爵夫妻に婚約破棄を求める手紙を出した。
すると、週末に弁護士を連れて訪問したいという先触れが折り返し送られてきた。
向こうも婚約破棄、いや解消に向けて動き出したのかとフォーラ伯爵は解釈し、なるべくこちらに有利になるように破談にしようと弁護士に相談をした。
ところがである。
「エリミア=オースティン子爵令嬢は体調不良になったところを、たまたま通りかかったモーランド侯爵令息様に介抱されていたのだとおっしゃっております。
もちろんジュリアン=モーランド侯爵令息様もそのように申しております。
お二人は不貞の疑いを持たれるような行為は決してしておられません。お二人が抱き合っていたことは事実ですが、過呼吸を起こされご令嬢の背中を擦っていらしただけだそうです」
モーランド侯爵家の顧問弁護士がこう言った。
「わざとらしい言い訳ですね。お二人の衣服が乱れていたというのに。
そもそもそんなに差し迫った状況下なら、なおさらベルでも鳴らして他の方に助けを求めるべきだったのではないですか?」」
フォーラ伯爵家の顧問弁護士がそう尋ねた。もっともだとキャスリンも思った。しかし、相手の方が狡猾だった。
「普通の人間ならそうだったのでしょうね。しかしジュリアン様はそういう状況というか事態に慣れていらしたので、ご自分で対処できると判断されたのです。
まあ、後で冷静になれば、人から見られたら疑われる行為だったかもしれないと反省されていますが」
「慣れていたとはどういうことですか? ジュリアン様は医療機関者というわけではありませんよね?」
伯爵家側の弁護士の問に答えたのはジュリアン本人だった。
「私の詩の朗読会では毎回のように、女性の方が興奮したり感激したりして倒れられているのですよ。過呼吸になったりして。ですから私はその応急処置には慣れているのです。
とはいえ、誤解を招いてしまい、誠に申し訳なく思っています」
しかも、彼はキャスリンと別れたくないと、憂いを帯びた顔をして、こう訴えてきた。
「オースティン子爵令嬢は単なる私の後輩で、複雑な家庭環境でも健気に頑張っているので、普段から色々と相談に乗ったり手助けをしていたに過ぎません。やましいことなど何一つありません。
私には後ろめたい気持ちになど全くないなのに信じてもらえないのは悲しいです。
私はキャスリン嬢一筋だというのに」
何故かジュリアンはフォーラ伯爵家の入り婿の地位に拘り、フォーラ伯爵家の人々の面前で、キャスリン様への愛の詩を朗々と謳った。
その上最後にはこんな猿芝居まで打った。
「私のキャスリン嬢への純粋な想いを信じて頂くために、私は自分の持っている書籍の著作権を全て、彼女の名義に変更することを皆さんに約束します」
と彼は宣言したのだ。これに両家の両親だけでなく弁護士達までコロッと騙されて、結局婚約は継続になってしまった。
己の最も大切な作品の著作権を捧げるほど、婚約者を愛しているのかと、みんな感激してしまったのだ。キャスリンと彼女の侍女であるフローラ意外は。
しかもその後彼女は、婚約者が最初からフォーラ伯爵家の地位と財産目当てであることと、子供が生まれたら彼女を殺して、実質伯爵家を乗っ取ろうとしていることを知ってしまったのだ。
というのも、学園卒業後ジュリアンは、結婚式の準備と領地管理の仕事を伯爵夫妻から学ぶために領地の屋敷に滞在していた。
そんなある日、彼はキャスリンが外出していると思い込んで、事もあろうか彼女の部屋のベッドの中にメイドを引きずり込んだのだ。
そしてメイドと事後の余韻を楽しみながらこう言ったのを、キャスリンは自室の隣にある隠し部屋の中で聞いてしまった。
「彼女固有の財産は将来生まれてくる私達の子供の物になる。
つまり僕が贈った著作権も宝石も彼女の死後僕達の子供に譲られる。
そしてその子供がまだ小さかった場合は、それを代理人になる父親の私が管理することになる。つまり結局僕の元に帰ってくるんだよ」
はっきりした物言いはしていなかったが、これは彼がいずれ妻を亡き者にすると暗示したのも同然だ。まだ子供が幼いうちに妻を亡き者にすると……
あんなにあっさりと自分の書籍の著作権を手渡してきたのも、最初からどうせ自分の元に戻すつもりだったからなのだ。
たまたまた隠し部屋の整理をしていた彼女は、偶然にとんでもない場面に遭遇してしまった。
最初はまるで芝居を観ているかのような気分だった。しかしベッドの軋む音、ひっきりなしに聞こえる嬌声、そしてあまりにもリアルな会話で現実に引き戻された。
婚約者と、自分付きになったばかりのメイドの濡れ場シーンに立ち会うなんてどんな拷問だ。
しかも、二人の会話からこれが初めての情事だとは到底思えなかった。
二人が関係を持っていたベッドでこれまで自分が寝ていたのかと思うと吐き気を催したが、両手で口を押さえてそれを必死に堪えた。
そしてキャスリンはこう思った。
(あの男の子なんて死んでも欲しくない。産んだらもう用無しとばかりに簡単に始末されてしまうのだから。
でもだからといって子供ができないと、いつまでもそういう行為を求められるに違いない。そんなの生き地獄だわ)
と。
このことを両親に相談しても、結婚前にブルーになって変な妄想をしているのだろうと、本気にしてもらえないどころか、ジュリアンに話してしまうかもしれない。
妹はしっかり者で頼りがいがあるが、さすがにまだ十三歳の子にこんなことを話すわけにはいかない。
私付きの侍女だったフローラならば何かアドバイスをくれるかもしれないが、初めての子の出産を控えて産休に入った彼女に余計な心配はかけたくない。
そうなると信頼できる相手といえば、あと一人しかいない。でも……
キャスリンはジュリアンの狂言を見破っていながら、周りの人々を上手く味方に付けた彼によって、その後じわじわと追い詰められ、逃げ道をなくしていった。
しかし結婚式が目前になった時、とうとう彼女は追い詰められて、初恋であり唯一の想い人であるアルトに自分の苦しみを全て吐露したのだ。
死ぬ前に、この世から消える前に、せめて自分の思いだけは伝えたいと。
まさかあんなとんでもないことを提案されるとは思いもしないで。
その結果、本気で死ぬ気だったキャスリンはアルトの指導を受け入れて、堂々と悪女を演じきり、自分の貞操を守ったのだった。
しかし、いつまでもメイドのカレンが指示通りに動くとは限らない。その不安が段々と大きくなっていった。
それに、そもそも子供ができなければ問題は何も解決しないのだ。
そう悩み始めた頃、キャスリンは社交をするためにジュリアンと王都へ出かけることになった。すると、案の定夫は友人達と会うと言って、真実の恋人の下へ向かった。
そんな夫の後ろ姿を見て、妻は笑んだ。彼女は心の中でこう思っていた。
「愛する人と思う存分幸せな時を過ごしてね。私も貴方と同じように愛するただ一人の方と幸せに過ごすから」
と。