次期伯爵夫人の離婚までの五年間と再婚までの半年
間接的に少しだけ死の表現があります。
苦手な方はご注意下さい。
夫のアルバートとは幼馴染みだった。
領地が隣で、爵位が同じ伯爵、年齢差もアルバートが4歳年上とちょうどバランスがよく、性格も表面的には大きな破綻面がなく問題がなかった。
そして何より農業をメインとする領地であるが、お互いにサブ的な産業が同種であった。
アルバートのハリイ伯爵家は、代々良質な鉄鉱石を産出する小さな鉱山を所有した故に練度の高い名工と呼ばれる技術者を多く抱えていたが、その鉱山の産出量が激減していたのである。
一方、私の生家のブライス伯爵家の領地では新たな鉄鉱石鉱山が発見されて、その埋蔵量は膨大であるとの調査結果が出ていた。
領主にとって、領地はもちろん領民も財産である。
領民は領主の許可なく移住できない。商人などの一部の許可された平民以外は、自由に領地間の移動や移住ができるのは未成年までであった。
成人して住民登録をしてしまうと、仕事や金銭などで人生を失敗した場合、支配する領主に温情がなければ餓死か犯罪者または奴隷への転落の一直線だった。弱者を救う社会保障制度などないのだ、いや、奴隷は唯一餓死を免れるための法的な社会保障制度の切れ端とも言えた。
つまり。
アルバートの父親であるハリイ伯爵は、鉄鉱石不足により仕事のなくなった技術者たちのために新たな鉄鉱石入手ルートが必要となっていて。かと言って安易なルートを選んでの原材料の高騰は論外であった。その点、領地が隣で運搬費用が安くすみ鉄鉱石の品質も安定している私の父親の鉱山は打ってつけであった。
私の父親のブライス伯爵は、発見された鉄鉱石を加工する技術者が欲しかった。あるいは鉄鉱石そのものを販売する先が。
両家の需要と供給や思惑や諸々がピッタリと歯車のごとく一致して、私は11歳の時にアルバートと結婚をした。幼い私にアルバートは不満げであったが、利害を含む貴族の結婚ならば0歳児でも過去に事例がある。貴族の結婚は政略有りきなのだ、11歳の私でも理解していることをアルバートは納得していなかった。
裕福なハリイ伯爵家の一人息子としての思い上がった不遜な態度とまで言わないが、それなりに高慢に成長したアルバートは躓くことのない順調な人生故に自惚れ気質が強かったのだ。政略結婚をするにしても11歳の幼い容姿の私ではなく、もっと自分に相応しい美々しく麗しい容貌の高位貴族の令嬢がいるのでないか、と。
アルバートはハリイ伯爵家の後継者である長男だったが、継嗣としての箔をつけるためと他貴族の子弟との交流も兼ねて王都の騎士学校に入学をしていた。この騎士学校は貴族専用で、本気で騎士を目指す貴族家の次男以下の子弟が多く在籍しており、厳格な教育と鍛錬で有名な学校であった。それだけに卒業すれば高い評価の肩書きが与えられたので、貴族家の後継者たちも自身の経歴の値打ちを上げるために入学する者が多数おり、アルバートもその一人だった。
剣技に長けたアルバートは能力的に騎士学校と適応して、優秀な騎士の卵としての成績を収めていた。それに綺羅びやかな王都の水と合ったようで、3年間という学校生活を謳歌して満喫する境遇であった。
一方、王都から年に一度帰ってくるか来ないかのアルバートの代わりに、11歳の私が将来的にアルバートを支えるべく厳しい領主教育を施された。
とは言え、私とアルバートの両親とはすこぶる良好な関係であった。
義母は私を本当の娘以上に可愛がってくれて、実際に実家のブライス伯爵家よりも居心地が良かった。
有能な領主である義父のハリイ伯爵は領民から慕われ、領主教育の他にも私が望めば様々な分野の教育を受けさせてくれて高価な専門書も取り寄せてくれた。
私はアルバートの両親である義父母が大好きだったし、政略結婚でも夫のアルバートと自己中心的な恋ではなく相互理解の愛を育てて支え合う夫婦になりたかった。幸せにしてほしい、ではなく、お互いに幸福になりたかったのだ。
しかし、アルバートは夫の役割を放棄して、気楽な伯爵令息の気分のまま。伯爵令息の権利を享受しつつ騎士学校の学生の身分を盾にして、義務と責任を負うことはしなかった。
「お義母様、アルバート様へお手紙を書いたのです。今度送る荷物とごいっしょにお願いできますか? こちらの刺繍をしたハンカチも」
「ええ、ええ、いっしょに送りましょうね。でもアルバートったら一度も返事をくれないのよね。手紙はおろか領地にも帰ってこないし! 本当に無精な息子だこと!」
よほど11歳の私との結婚が気に入らなかったのだろう。私がどれほどアルバートに歩み寄る努力をしても、無視されるだけであった。世の中は頑張っても報われることの方が少ないとわかっていても、辛かった。
一人息子に義父は甘かったので若気の至りとアルバートに注意することもなかったが、義母は違った。
立腹した義母は、アルバートと私を交流させるために王都へと向かったのだ。私が13歳の時である。
しかし、きちんと手紙で何度も念をおして知らせていたのにアルバートは王都のハリイ伯爵家のタウンハウスに帰って来なかった。
「こうなったら騎士学校へ直接に行きましょう!」
全寮制の厳格な騎士学校では、緊急時以外の家族との面談は禁止されている。会いたかった、という理由で学校を訪問するなど親離れ子離れできない家と陰口を叩かれて不名誉極まりないこととなるのだ。
「お義母さま、きっとアルバート様は何かご用事があって来られないのです。王都滞在の日数はまだありますから、再度連絡をしてタウンハウスで待っていましょう?」
「でも外出日はあるし、それ以外でも申請すれば外出は許可されているのよ。それに会えないのならば、その旨を知らせてくれればよいことなのに! アルバートがわたくしたちを煩わしいと避けているとしか考えられないわ!」
義母の意見にまったくもって賛成だけれども、ここで同調すれば騎士学校へ一直線となる。そんなハリイ伯爵家の名が廃る行為は避けたい。
義母は元公爵家の蝶よ花よのお姫様だったので、世界は自分中心に廻っているという感じの思考面が強いのだ。義父は義母にぞっこん甘々なので、義母のヤラカシの尻拭いを喜んでしてしまうタイプだし、ここで私が踏ん張らないとハリイ伯爵家は王都の社交界に楽しく愉快な噂話の提供元となってしまう。
「お義母様、お義母様、それよりも私は王都が初めてなんです。王都出身のお義母様に王都のアレコレを教えていただきたいのです」
精一杯かわいく義母におねだりをする。たいてい義母は私のお願いを叶えてくれるので、
「そうね! せっかくの王都ですものね、お買い物に行きましょう! 商人を呼ぶのもいいけれども、お店で商品を見るのも気晴らしになるわ! 人生は短いものね、うーんと楽しまないと! アルバートは来年卒業ですもの、放っといても領地に帰ってくるわ」
と、たちまちにコロッと義母は騎士学校突入コースから王都お買い物コースへと変更する。
「アルバートはロクデナシだわ。こんなにも可愛くて心根が優しくて優秀なお嫁さんをもらった果報者だというのに、全然わかっていないなんて。もう知らない、わたくしが独占しちゃうもの!」
ぎゅう、と抱きしめられて私も義母を抱き返す。
「お義母様、大好きです」
「わたくしもよ。でも旦那様にはナイショね、嫉妬されるから」
仲良く手を繋ぎ、馬車に乗った私と義母は買い物へと出発した。
ガラガラと車輪の音が石畳の道に響く。
何気なく窓から外を見ていた私は息を呑んだ。
王都の人波の中を、女性の肩を抱いて歩くアルバートの姿があった。
これが。アルバートがタウンハウスに来なかった理由……。
太陽を背にして歩くアルバートと女性は、輝く銀の縁取りをされて一対の絵のようであった。優しく、甘く、お互いに微笑み合う。
視線が離れない。離せない。首筋が固まって身体が硬直する。指の爪が窓の木枠に食い込んだ。
アルバートの女性に向けた笑顔が、心臓の奥の奥まで突き刺さる。真冬のように冷たい吐息が身体を蝕み滑り落ちていった。
視界がゆらゆらと滲む。
幸い義母は反対側の窓を覗いているので、私は急いで目元をハンカチで拭った。
「お義母様。お義母様とお揃いのドレスが欲しいです」
平静を装って私は明るい声で笑った。感情を制御して虚勢を張る強さも貴族の妻を務めるための嗜みだ。
「まぁ、ステキ! ええ、ええ、わたくしもお揃いのドレスが欲しいわ。そのドレスでお茶会に出席しましょう、うふふ、わたくしの可愛い義娘を自慢するの!」
今アルバートを追いかけて、人前で不実を問い詰める行為をすることはできない。騎士学校に乗り込む以上の醜聞になる。
貴族の男性が愛人を持つなんて珍しくない。王国の慣例では、貴族の妻は公認するか知らんぷりをするか。それが妻の賢い選択とされていて、嫉妬は最悪の愚かな選択と言われているのだ。
取り乱してはいけない。私は13歳でも次期ハリイ伯爵夫人なのだから。
でも私は恵まれている、義母に可愛がられて大事にしてもらえて。婚家に虐げられて搾取される花嫁の実例は多々あるのだから。
そう思って。
そう、自分に言い聞かせて。
目を持たない貝のように。
耳を持たない貝のように。
私は自分が見た光景を痛みとともに胸の奥に、貝が海底に潜るように沈めたのだった。
「リリージェーンと申します」
義母の人脈は凄まじかった。実家である公爵家の派閥関係から王宮のお茶会まで幅広く、私は義母に引っ張られて出席をした。
「リリージェーンは凄いのよ。13歳なのに五ヶ国語が堪能なの、ちゃんとその国の風習や法律も理解しているから他国からの武器や道具のオーダーメイドの窓口になってくれているのよ。それに数字に強いから旦那様の仕事の補助もしてくれているし、凄いでしょう!」
親しい友人ばかりのお茶会なので義母の口調も碎けている。
「まぁ、13歳で!? わたくしの王宮文官になった息子の10倍も立派だわ!」
「それにこのハンカチを見てくださる? この花々の刺繍はリリージェーンが刺したのよ」
「まぁぁ! 上手だこと!」
「芸術作品みたいだわ!」
「なんて細かくて綺麗なの!」
「オホホ、もっと言って〜! この胸のレースジュエリーのブローチもリリージェーンの作品なのよ。リリージェーンはレース編みも得意なの!」
「「「まぁぁぁ!! 素晴らしいわ!!」」」
「オホホホ、もっと誉めても良くってよ!!」
……義母は根が素直な方なのだ。茎がちょっと考え無しで咲く花がボケっぽいのだけれども。
でも、ボケの花は香りが良くて愛らしくて美しいから、義母はこのままでいいのだ。義父といっしょに私も義母をお守りするのだから。
それなのに。
王都から領地に戻った翌月、義母は倒れてしまったのである。重い病気で、医師は余命半年と宣告した。
アルバートは帰って来ない。今まで何度も義母から帰郷するように催促をしつこくされたアルバートは、義母が仮病をつかって口実にしていると考えたようだった。父親であるハリイ伯爵が説得しても却って意地を張るように頑なとなった。ましてや私の訴えなど歯牙にもかけない。
そんな時、隣国と戦争が始まった。
騎士学校の生徒たちは正規の騎士見習いとして従軍が決定した。
貴族家の後継者または一人息子は血統存続のために兵役が免除されたのだが、アルバートは義勇兵的な騎士として自発的に軍に参加したのだった。英雄に憧れるアルバートは、戦場で武功をあげて名を高めたかったらしい。
とことんアルバートは、身分と立場とは違うものなのだということを理解していなかった。平常時ならばアルバートの甘い思考も許容されるかも知れないが、非常時においての貴族は統治者として闇の中の光明たる導き手とならねばいけないのに。
「何ということだ……。アルバートは自身の欲を重視して自分のことしか考えていない。伯爵家の嫡男としてチヤホヤと優遇されて挫折を味わうことがなかった。だから他人の迷惑を考慮せず貴族の重責を忘れて自分の都合だけの利己的な言動をするのだ。もし将来アルバートが領主になったとしたら……? 農地は肥沃だし税率も王国法で決まっているから、領主が多少無能だとしても独立独歩の気質の強い農民たちは大丈夫だと思うが。鉱山が閉鎖して輸入ルート頼りの技術者たちをアルバートは守ることができるのか? 手一杯になって切迫したら見捨ててしまうのではないか?」
義父は苦悩して頭をかかえた。
「わたしが甘やかしたせい……だ。わたしがアルバートを……。わたしは王都でのアルバートの無分別な行動を知っていたのに、過ちは後々の人生の教訓になると思って放置してしまった。若いうちならば失態もやり直しが出来ると、失敗は戒めとして生かされる、と……。アルバートを戦場から強引に連れ戻すことも可能だが、それをすればハリイ伯爵家の体面に傷がつく。親族となったブライス伯爵家にも迷惑がかかってしまうだろう。それならば、いっそ…………」
言いかけて義父は口を噤んだ。石で刻まれた彫像のように目を伏せる。
「すまない……。母親が病床に伏しているのに、アルバートは……」
義父が義母の手を取り、自分の額に押し当てる。
「旦那様だけの責任ではないわ。わたくしもアルバートを甘やかして育ててしまいましたわ……」
義父と義母が私に視線を向けた。
「すまない、 リリージェーン」
「ごめんなさい、リリージェーン」
義父の失望は深かった。
アルバートは意気揚々と戦場に立ったものの、矢がかすめただけで怖気づき剣を一合と交えず前線から臆して逃げ帰ったのだ。以来、正規軍の命令系統ではなかったことを利用して後方での待機騎士の一人となったのだった。
しかし、これはアルバートに限ったことではない。義勇兵的な貴族の子息の騎士は勇敢に戦い参戦する者たちもいるが、単に戦線に行ったという名声だけを欲して現実では戦場に立たない者も一定数いたのだ。そのかわり、その一定数の子息の家は子守り料として戦費をたっぷりと提出したので、軍の上層部も社交界も古くから続く貴族の悪習として眉を顰めながらも容認していた。
戦争は人命も金銭もあらゆるものを無造作に夥しく消費する。自国の戦争に協力することは貴族の務めだが、ハリイ伯爵家は、アルバートの護衛付きの豪華な兵舎での快適な戦場生活のために代々の蓄財の半分という莫大な金額を軍部に提供したのだった。いや、護衛というより見張りというべきか。戦場では、時に有能な敵よりも無能な味方の方が足を引っ張ることがある故に。射られた弓の矢が敵ではなく味方の背中を誤射することなど珍しくはないのだ。たとえば戦の妨げとなる騎士の背中に命中する不幸な事故も稀なことではないのである。
義父はアルバートを見限ることができなかったのだ。どれほど立派な人間であろうと、正しい答えだけの人生にはならないし、正しいだけの人になることはできない。
「わたしはね、リリージェーン。アルバートの父親だけど、リリージェーンの義父であり領民たちの領主という名前の父なのだよ」
と、この時に義父は三つのものを私にくれた。贖罪として。
ひとつは、ハリイ伯爵家の蓄財の半分。
残るふたつは――――。
それからの私は、義母の介護と領地の巡回の日々だった。領民たちに直接に会って希望を聞いて回る。農民たちは肥沃な農地から離れることを拒み、技術者は鉱山が閉鎖されて仕事が激減した領内から離れることを望んだ。それらを義父に報告して、義父を手伝って私は各所と連絡を取り合う。
義父は、農民たちの土地への愛着も技術者たちの先行きへの悲観も予測していたように私の実父ブライス伯爵と情報交換と相互伝達を煮詰めた。もしかしたら義父は私の結婚の時から、このような未来を予想していたのかも知れない。
「伯爵位の譲渡許可をもらうために王宮にも手紙を出さねば。リリージェーン、領地にいるわたしの弟からの連絡はきたかな?」
「はい。お義父様、こちらに」
「お義母様、お身体をお拭きますね」
消毒効果のある薬草を煮出して、その汁を薄めて身体を清拭する。
「私の生家のブライス領から薬草を送ってもらったのです。スーッとさっぱりして気持ちがいいでしょう?」
実母は病弱な体質で長い闘病の末、私の結婚式を見届けて安心したかのように亡くなった。実父のブライス伯爵は母親の生前、各地から薬草を取り寄せたり優秀な薬師を雇い入れたりしたので私も薬草に詳しくなったのだ。
「ありがとう、リリージェーン。これは新しい薬草ね?」
「おわかりになりますか? 二番目の兄が品種改良をした薬草なのです」
私には兄が三人おり、長男はブライス伯爵家の後継となり、次男は植物学者となって日々領内の小麦や薬草の研究に明け暮れていた。三男は優秀さを買われて侯爵家に婿入りをしている。
兄たちも父も私を蔑ろにするアルバートに立腹して、私のことをとても心配してくれていた。政略で結婚をさせてしまったが、私を不幸にしたかったわけではない、と。
「お義母様。風が穏やかなので庭を散歩しませんか?」
「ええ、そうね、リリージェーン」
侍女と協力して義母をベッドから車椅子へと移動させる。
余命半年と診断された義母は、二番目の兄の薬が身体に合ったのか病状が安定して、宣告から1年が経過していた。義母の生家の公爵家が高価な痛み止めの薬を、戦争をしている南の隣国ではなく平和条約を結んでいる北の隣国から辺境伯経由で取り寄せていることも義母の病状には有用であった。
それでも病は確実に進行をしていて、今では義母はベッドから身体を起こすことさえ侍女や私の手助けがいった。公爵家が届けてくれる痛み止めによって義母の表情が穏やかであることが唯一の救いだった。
薔薇が風に揺れる。葉擦れの音がさわさわと緑の音楽のように鳴っていた。
ハリイ伯爵家の庭園は、薔薇の花園であった。季節すら関係ない。薔薇は春から初夏が最盛期であるが、ハリイ伯爵家の庭園では義母が好きだと言う理由で四季に渡って薔薇が咲き零れている。
火の色を宿す真紅の薔薇や。
水の雫のような淡い白の薔薇や。
爽やかな檸檬の香りがするような黄色の薔薇や。
気品のある貴婦人みたいな紫色の薔薇や。
夜を纏ったような黒い薔薇や。
百種類以上の薔薇が絢爛と咲き誇っていた。
おとぎの国への入口のような蔓薔薇のアーチをくぐり、様々な色で満開の時を迎えている薔薇たちの間をゆっくりと車椅子を押して進む。
香りのよいラベンダーなどのハーブも植え込まれていて、空気が柔らかく甘い。
石橋のかかる整備された小川には河骨が黄色い花を一輪咲かしていた。まるで金鈴のように丸っぽくて可愛い。小川に浮く葉が風で動くと鈴のように黄色い花もころころ動くみたいで、浮葉が金鈴を振っているようである。
遠くで鳥の声が聴こえる。
啼いて啼いて。
そのうち別の鳥の声が加わって、さらに幾つかの声が絡みあい、 競い合うような歌が高く高く空へと舞い上がってゆく。薔薇の色には存在しない青い色の空へと。まるで華麗な薔薇たちと空との色彩の交響曲のようであった。
義父が財力と丹精を込めた、義母のための庭園は夢のように美しかった。
「ねぇ、リリージェーン。わたくしの宝石箱をもらってくれるかしら?」
「お義母様?」
「宝石箱はわたくしの母からいただいたものなの。だから、わたくしも娘に贈りたいのよ」
「……はい、お義母様。ありがとうございます。大事にします、そして私も娘を生んでその宝石箱を伝えます」
「嬉しいわ、リリージェーン。わたくしはリリージェーンの母ですものね。愛しているわ」
「私もお義母様が大好きです……っ!」
義母は私の手を優しく握った。私も握り返す。薔薇と空との間を駆け抜けた風が髪を滑り、首筋がくすぐったい。滲みかけた涙を微笑みに変えようとして失敗した私は、喉を詰まらせながら「大好きです」と繰り返して言葉を綴って、いつものように私と義母は仲良く手を繋いだ。
日差しは爽やかで暖かいのに、私の胸の奥が凍りつく。義母はずっと待っているのに。義母が本当に手を繋ぎたいのはアルバートのはずなのに―――アルバートは。
アルバートは、戦場で美しい看護婦に恋をして、その心を得ようと他の兵士たちと競って帰って来なかった。悲しくて、悲しくて。義母の最後の願いすら叶えてくれないアルバートが恨めしくて。この時、頭ではアルバートが自分の夫だとわかっているのに、私の心はアルバートが夫であることを拒絶したのだった。
そうして私が16歳となり。
南の隣国との戦争が終わり、義母の葬儀の1週間後アルバートがハリイ伯爵邸に帰ってきた。妊娠中の美しい女性を伴って。
「おまえは廃嫡だ。何十と手紙も使者も送ったのに帰って来なかったのはおまえ自身だ。母親の死にすら立ち会わない息子など不要だ、自業自得と思え。家系図から消去したので、おまえはすでに平民である」
義父はアルバートが屋敷に入ることを拒絶した。門の柵越しに対面する。私は義父の後ろからアルバートを見ていた。義父は死火山のごとく静かに激怒していて、眼差しが刃のように鋭く尖っている。
「ち、父上!?」
「王宮からの許可も得た。伯爵位は領地で代官をしていたわたしの弟に譲渡することが決定している。ここにおまえの居場所はない。爵位も領地も屋敷も全て弟のものだ」
義父は最愛の義母の死により、あれほど大切にしていたアルバートへの愛情がそっくりそのまま憎悪へと変化してしまったのだ。それほどに義母の死は義父の心を粉々に壊してしまっていた。
私では……義父の支えになれなかった……。
義父にとって良き父親も良き領主も全部が、義母の良き夫となるためのものであったのだ。義母だけが義父の世界だった、隠居して義母の墓守になると宣言するほどに。
せめてアルバートが義父と義母の傍にいてくれたならば何かが違っていたかも……、と思うが今さらだ。
「父上、待って下さい! そんな突然に……ッ!」
「突然? いいや、何度も何十度も連絡をした。無視をしたのはおまえだ。伯爵家の財産もおまえのために半分使った。時間も金も十分におまえに注いだ、愛情もだ。それらは無限にあるものではないのだ」
義父の声音は冷たい。義母の死によって義父の心はもう枯れ果ててしまっていた。
「それと、リリージェーンとの婚姻は白い結婚により離婚が成立している。今後はリリージェーンに迷惑をかけるな、もっとも貴族の令嬢と平民では身分が違いすぎるから接点もないだろうがな」
「そんな酷いッ! 俺は国のために戦場で戦ってきたのに……ッ!」
「おまえは恥ずかしくないのか? よく言えるものだ。わたしは知っているのだぞ、おまえが戦場の後方で遊興三昧だったことを。おまえが遊ぶ金はどこからきていたと思っているのだ? わたしが用意していたのだぞ、だから全部わたしは知っている」
義父の目がますます冷たくなる。氷のようだ。
「わたしはハリイ伯爵家の当主だ。伯爵家の顔に泥を塗り、財産を食い潰すおまえはもはや許容できない。もしもおまえが伯爵位を継承すれば領民のための蓄財まで散財するだろう、論外だ」
「リリー! リリージェーン、おまえは俺の妻だろう!? なぁ、父上にとりなしてくれッ!!」
アルバートが柵の隙間から手を伸ばして、必死に私に縋る。
私は首を振った。
「もう遅いのです。私の実父のブライス伯爵は、アルバート様の行動に怒って鉄鉱石の流通を停止させてしまいました。だからお義父様は3つのものを私に下さいました。1つ目は、5年間のアルバート様のわたしへの不義理の慰謝料として伯爵の財産の半分。2つ目は、ハリイ伯爵領では仕事が激減した技術者たちのブライス伯爵領への移住許可書。3つ目は、アルバート様との離婚の許可書です。私とアルバート様は、もう離婚して夫婦ではないのです」
「でも俺は、おまえときちんと夫婦になるつもりで帰ってきてやったのに!」
「浮気相手を連れて? 私と夫婦に?」
呆れ果てる私に、アルバートが噛みつく。
「政略結婚なのだから外に癒しを求めて何が悪い!? だいたい貴族の妻が夫の浮気を責めるなんて狭量すぎる!!」
「狭量? 貴族の妻は夫を支えて夫に従順であるべき、という構図が成り立つのは貴族の夫が妻を守り妻の豊かな生活を保障しているからです。でもアルバート様は一方的に妻を搾取して軽んじ、アルバート様の生活を支えるための便利な道具にしているだけ。前提が違うのに狭量とおおせられても困ります。それに政略結婚だからこそお互いに条件が定められていて、私とアルバート様の場合は対等な条件でした。アルバート様が好きなことをして好きなように生きるために、私が働いて支える支配関係の婚姻条件ではないのです」
冷静な私の指摘にアルバートは怒りで顔を赤くして怒鳴り立てる。
「うるさいッ! うるさいッ! おまえは俺に黙って従っていればいいんだッ!!」
私は長い溜め息を吐いて、再び首を振った。
「無理です。もう離婚していますので」
「うるさいッ! 勝手に11歳の子どもと結婚させられて勝手に離婚も決められて、俺こそ道具じゃないかッ! 俺はかわいそうな被害者だッ!!」
かわいそう? 誰が?
不合理で傲慢な貴族は多い、アルバートのように。
平常時であるならば、誰かが補佐をして働いて、弱音を吐かず我慢して耐えて、苦しみも辛さも怒りも悲しみも蓋をして。その誰かを犠牲にしてアルバートは、思い通りの幸福の中で暮らすことが可能だったのかも知れない。
けれどもアルバートは自爆した。
越えてはいけない一線を自身の愚かさで越えてしまったのだ。
「その11歳の子どもは弁えておりましたよ、貴族の娘から貴族の妻になったことを。アルバート様の妻として精いっぱい尽くす覚悟を持っておりました。でも、アルバート様は? ずっとハリイ伯爵家の息子のままでした。息子いいえ子どものまま自由に我が儘に振る舞い、後継者や政略結婚した夫の立場に立たなかったツケが今自分に返ってきているだけなのです。叱咤も忠告も何百回とされてきましたのに変わらなかったのはアルバート様自身です」
何よりも最悪なことは、義父を激怒させたことだ。貴族にとって家長の権限は絶対である。アルバートは、義父の最愛の義母を大事にしなかった。
「それに、アルバート様。黒い布は? 死者を悼む黒い布を何故着けていないのですか?」
私も義父も黒い喪服である。
貴族であるならば、故人の冥福を祈り行動を慎む忌日数は30日、その間は喪服を着用する。喪服がない場合は身体のどこかに黒い布を着けるのだ。ポケットチーフやネクタイやシャツ、単に黒い布を腕に巻いているだけの人もいるがアルバートの服には黒い色がどこにもなかった。
浮気相手ともども高位貴族らしい華美な服装である。
「戦場から帰ってきたばかりなのだッ!」
「それでも黒い布を腕に巻くぐらいはできますよね? お義母様を悼む気持ちはないのですか?」
「うるさいッ! 生意気を言うなッ!」
ガシャンッ!! 鉄製の柵が金属音を響かせる。アルバートが柵を蹴りつけたのだ。
義父が片手を上げて待機していた兵士を呼ぶ。
「武器を所有していれば弱い領民たちを襲う可能性もある。身ぐるみ剝いで裸にして森に捨ててこい、女もだ。それとアルバートの廃嫡は領民たちに公布して情けをかけさせないように。罪状は領主への反逆だ」
「父上! 俺は反逆などしていませんッ!」
「柵を蹴っただろう。十分な反逆行為だ、平民のおまえを森に捨てるだけの罰など、領主としては反吐が出るほど優しい。親としての最後の恩情だ」
「ち、父上ッ!!」
「いや、やめてっ!」
喚くアルバートと浮気相手を兵士たちが力尽くで掴まえて引きずって行く。
後日、アルバートと浮気相手は森をさまよっているところを、グレーゾーンを扱っている商人に捕まったらしい。表向きは雇用契約だが実質は奴隷に等しい。アルバートも浮気相手も顔は綺麗だから、どこかから漏れた情報が商人に伝わり商人は喜び勇んで森に入ったようだ。
餓死や獣に食い殺されることから救うために誰が商人に情報を流したのか、生まれた赤子を買い取って誰が孤児院に入れたのか、…………私は知らない。
その後、私は生家のブライス伯爵家に戻った。
義父に戻されたのだ。
そして、今日はお見合いである。義父と実父とが選びに選びぬいた相手と。
相手は、ハリイ伯爵家のかつてのお得意様。
技術者たちが移住した今ではブライス伯爵家の取引先である、北の辺境伯ラインハルト様。
再婚の貴族の娘の使い方としては恵まれている方だった。義父も実父も慈悲深いが、伯爵家の当主なのだ。義父も実父もラインハルト様を「素晴らしい人物」と絶賛していた。人柄のよい方に嫁げる私は幸運だった、品評会に出荷される家畜のように高値をつけた相手に売られるみたいな結婚をする貴族の娘もいるのだから。
ラインハルト様は巨大なクマさんだった。いや、人間なのだが人間離れした怪力と巨体で『北の人喰い熊』と異名を持つお方なのだ。とても好みの方である。細身の綺麗系のアルバートに裏切られたので、どうやら私は真逆のどっしりとした頼り甲斐のある方がタイプとなってしまったようだった。義母の薬の関係でお世話になっていたので元から好感度は高かったのだが、爆速でギュンギュン上がっていく。
どうしよう。胸が痛い。
これが一目惚れ?
念入りに育てた淑女の仮面が剥がれてしまいそうだった。
ラインハルト様も私と同じく再婚であった。
初婚は王命による公爵令嬢が相手だったが、公爵令嬢はラインハルト様のことも寒く凍える北の大地も嫌悪して王都の公爵家に逃げ帰ってしまい、わずか1ヶ月で離婚となったのである。
もったいない、素敵な方なのに。
でも、おかげで私はラインハルト様と結婚できる。うっとりと蕩けていると、ラインハルト様が正気なのか!? というような顔で尋ねてきた。
「もしかしてリリージェーン嬢は俺との結婚に乗り気なのだろうか? こんなデカくてムサい俺との結婚は恐ろしくないのか!?」
「恐ろしいだなんて……。ラインハルト様は素敵です」
人生で初めて「素敵」と言われたラインハルトはびっくり仰天して目を見開く。
「もしかしてリリージェーン嬢は目が悪いのか?」
「いいえ。近くも遠くもよく見えています」
解せん、と唸りつつも巨体をのっそのっそ揺らしてラインハルト様は口をモニョモニョさせて小さく言った。
「もしかしてリリージェーン嬢は、俺の妻の役目をはたしてくれるつもりがあるのだろうか?」
私はポッと頬を赤らめて頬に両手をあてた。
「つ、妻の役目?」
人妻だったので閨の教育は受けている。アレやコレやも興味はあるが、私とラインハルト様の体格差で大丈夫なのかしら?
などと私が知識はあれど経験のない桃色の妄想に浸っていると、ラインハルト様が、
「朝は『いってらっしゃい』と見送ってくれて、夜は『おかえりなさい』と出迎えてくれるのだろうか?」
と真剣に告げた。
私は、乙女が乙女をしていない妄想に走った自分を誤魔化すために全開の笑顔で頷いた。
「もちろんですわ! ラインハルト様!」
「もしかしてホッペにチューもしてくれるのだろうか?」
4度目のもしかしてをモジモジ言う巨大クマさんが可愛すぎる。身悶えしたいが、淑女の仮面をかぶって我慢、我慢。
「はい! 毎日ホッペにチューをいたしましょう!」
ラインハルト様が胸を押さえて震えている。
「嬉しいぞ……っ! 俺をバケモノと罵らない理想の妻だっ! 食事もいっしょに食べてくれるのか!?」
可愛いクマさんのラインハルト様に、私も胸がキュンキュン疼く。同時に、前妻の公爵令嬢の悪妻ぶりをうっすらと垣間見ることができた。なので会う機会があればちょこっと仕返しをしよう、と決意する。だってラインハルト様はこんなにも可愛らしいクマさんなのに許せない。
どこがバケモノなのだ。
私の目には超絶かわいい巨大クマさんフィルターがかかって、ラインハルト様がとっても可愛らしく見えるのに!
私はラインハルト様の手をぎゅっと握った。大きくて木の幹のように硬い。淑女としては初対面の相手にはしたない行為だが、私は結婚する気が満々だから許してほしい。
「はい! 毎日いっしょに食事を食べましょう!」
ラインハルト様が破顔して私の手を握り返す。
「リリージェーン嬢。頼む、俺と結婚をしてくれ。一生大事にする。リリージェーン嬢に害なす者は血祭りにして粉々にするから、俺と結婚をしてくれ」
さすがは『北の人喰い熊』、笑顔の圧が凄い。迫力満点である。
私は心臓を高鳴らせて、
「ラインハルト様。末永くよろしくお願いいたします」
と淑女らしく淑やかに頬をほんのり染めて了承をしたのであった。
こうして私はアルバートと離婚後半年でラインハルト様と婚姻を結び、その夜に夢を見たのだった。
娘が生まれた夢であった。
広げた私の腕の中に娘が飛びこんできて、ラインハルト様が私を娘ごと抱きしめてくれる。
暖炉の暖かな炎。暖炉の前にはラインハルト様が狩った獣の毛皮が何枚も敷かれている。
外の世界は雪と氷の、天と地の境界線もないほどに真っ白で、降った雪が地に積もらず風に逆巻いて天へと上るほどの雪嵐だった。
でも室内には、ラインハルト様がいて娘がいて。
幸せで。
凛々しい大クマの夫と可愛い子クマのように丸々した娘と、冬は寒いからと笑いながらぎゅうぎゅう抱きあっている夢だった。
目覚めた私は、夢の中でも幸福をくれた隣でグォーッと眠るラインハルト様に触れるだけの小鳥のキスをして、胸に寄り添い再び眠ったのであった。
そっと自分のお腹を撫でながら。
読んで下さりありがとうございました。
お知らせ
リブラノベル様より加筆して電子書籍化
「悪役令嬢からの離脱前24時間 〜護衛騎士から溺愛されて、私は《物語》から駆け落ちします〜」
6月25日にシーモア様より先行配信します。シーモア様特典SSあります。
よろしくお願いいたします。