ダークヒーローよ、もう一度.1
それは、僕が『僕』であることを捨ててまで得るべきものだったのだろうか。
三月の頭、春芽吹く時期になった。
暦上は春というわけだが、まだまだ気温は肌寒い。室内でも暖房やヒーターが欠かせないし、タイツ無しではスカートも履けないくらいだ。
クラス替えが話題にのぼり始める頃だったので、クラスのあちこちでは誰それと一緒になりたい、といった会話が散見されるようになっていた。
樹も例に漏れず、同じようなことを言った。
『二年になっても、晶と一緒がいいなぁ』
照れ臭そうにはにかむ樹に、むず痒い気分にさせられる。好意には答えられないとはいったものの、やはり、彼女のような純朴な人間の言葉を聞くと、自然と気分が高揚するものだ。
『私もだよ』と答えたときの樹の顔も覚えていて、樹はいたずらっぽい表情で、『期待させるなよぅ』と形ばかりの鉄拳制裁を僕に下した。
放課後になっても、そうした話題でもちきりだった。
正直、樹を例外として、他人がどうなるとか話題に興味はなかったが、こうしたものに属することにも慣れていた。時間の浪費、という名前を与えてやってからは、なんとなく納得もしていた。
会話の合間に、ふと、樹が僕の髪に触れた。
「晶、随分と髪伸びたね」
「うん。私、面倒くさがりだから、入学してからほとんど切ってないんだ」
「そっか」と樹が笑う。「ショートも中性的で似合ってたけど、ロングはロングで似合ってるね。顔立ちが整ってるからかな、美人だよ、晶」
美しい言葉の響きのなかに、確かな下心が見える。それを賢明に押し殺そうとしている樹を見ていると、いつも罪悪感とわずかな優越感を覚えた。
「ありがとう」
俗に染まっていく僕がそう答えれば、周りのクラスメイトが僕たちの仲の良さをからかい混じりで称賛した。
度を越えたものではないのだが、たまに樹がこちらを気遣うような素振りがあった。特に、僕が僕と呼ぶことの理由を問いただしたクラスメイトは少し加減が下手くそなものだったから、時折、樹と二人して顔を歪めた。
だが、それだけだ。口には出さなかった。『言いたいこと』の何一つさえ、言わなかったのだ。
それは勇気の欠如ではなく、諦観に飲まれたにすぎない。
彼女らと今後も上手くやっていくため、必要なことだと思った。だって、あの樹が何も言おうとしないのだ。僕は何も言うべきではないのだろう。
「ごめんね、晶。変な意味じゃないんだよ」
嘘だ。変な意味だって混ざってるくせに。
それでも僕は、彼女を元気づけるために微笑んでみせた。
またクラス一緒になるといいね、と笑う樹の友だち。樹の中で、彼女らと自分が同格だというのは、少し釈然としないもの覚える。
樹の表情の変化にも気付けないような人間に、その友人を名乗る資格は微塵もないと思った。まあ、それを口にしても樹が困るのは分かっていたので、指摘することはしなかったが。
すると、樹の淑やかな指先が僕の髪に触れたままになっている間に、教室に人が入ってきた。別に放課後の教室とはいえ、人の出入りはある。だから僕がそちらのほうを向いたのは、何の意図もない行動だった。
猫の目みたいに大きな双眸から放たれる視線が、僕の眼差しとぶつかる。
黒と白のアンバランスさが魅せる輝きは、相変わらず美しく、僕の心を揺さぶった。
(雪姫…)
心のなかだけで彼女の名前を呟く。
それだけで、胸が酷く疼いたし、救われない何かを思い出して大きなため息を吐くことになった。
雪姫は僕と樹の姿を確認すると、キッ、とまなじりを吊り上げ、大きな足音を立てながら自分の席へと移動を始めた。
もしかすると、雪姫は樹のことが何か気に入らなかったのかもしれない…と僕は随分前に結論を出していた。そうでなければ、あの夏の日に雪姫が見せた態度の説明ができない。
あるいは、同性愛者への嫌悪感――つまりはホモフォビアである可能性か。
もはや、どちらでもいい。戻りはしないものに思いを馳せるのは無意味だ。苦しみしか生まない。
きゅっ、と僕の髪に触れた樹の指に力がこもる。緊張か、不安かは分からない。
心に伸びた神経を取り除ければ、どれだけ楽になるだろうかと思いながら、僕は振り切るように雪姫から視線を逸らした。
「感じ悪…」と群れの一匹が呟く。
誰のことを示しているのかが分かっただけに、僕の心臓はドクンと痛んだ。
北宿雪姫は、その強情さや寡黙さから近寄りがたい存在としてクラスメイトからは認知されていた。一方で、やはりその整った造形も同時に語られることも多く、美しい少女として…特に男子生徒の中で話題に挙がっていた。
ゆえに、彼女のことを悪く思う女子生徒は少なくなかった。雪姫が誰に対しても平等に拒絶的であることなど、彼女らにとってはどうでもいいことだった。
この群れにおいても、雪姫の悪口が話題に出ることは少なくない。僕も同調こそしなかったものの、否定もしなかった。
独りでも美しく、気高くあれる雪姫を咎めるような罪深い行為など、僕には到底できることではない。ただし、否定もしない時点で僕も同罪だとも分かっていた。
業の重さに視線が下がっていると、再び雪姫が教室から出て行こうとしているのが分かった。
変わらず、足取りは激しい。怒りを体現しているのだろう。おそらく、僕への怒りだ。
彼女から目を背けることにも慣れてきたな、と自嘲した、そのときだった。
ガタン、と大きな音が鳴った。
何の音だと振り向けば、雪姫が腰を抑えながら右手を机について立ち止まっていた。
「あ、ごめーん」と例のクラスメイトが呟いたのを聞いて、彼女がわざと机を押して雪姫にぶつけたのだと気付いた。
意図的に雪姫が傷つけられたことを理解した瞬間、ぐわっ、と僕の体の体温が上がるのを感じた。
なにをするんだ、と言葉が出かけた。だが、僕に一体、どんな権利があって声を荒げるのかが分からなくなり、口をつぐんだ。
当然、雪姫はここで黙る人間ではない。
「なにするのよ!?」
きっと、彼女がこんなに苛烈な怒り方をするとは夢にも思わなかったのだろう。クラスメイトらはびくっ、と肩を跳ねさせて驚いていた。ただし、机を押した女子生徒はそうではなかった。
「は?謝ったじゃない」
「わざとしておいて、どの口が、このっ…!」
今度は雪姫が机を押し返した。その衝撃は仕返しにとどまらず、じっと事態を静観するだけだった僕や樹、その他のクラスメイトにまで渡る。
「きゃっ」と樹が悲鳴を上げる。
それに反応して、その場にいる僕を除いた全員が樹の心配――という皮を被った状態で雪姫を責め立てた。
「ちょっと、北宿さん、やめてよ」
「こわっ」
「酷くない?樹、大丈夫?」
などなどだ。
樹は小さく頷くと、申し訳無さそうに雪姫を見た。自分の反応が彼女らに大義を与えてしまったと思ったのだろう。
実際、それで増長したクラスメイトは自分らの行為を棚に上げて雪姫の行為を口々に非難した。
さすがの雪姫も多勢に無勢だと感じたのか、悔しそうに唇を噛み締めていた。その姿があまりに無情に思えて、このまま無言を貫くことはとても罪深いことだと僕は腰を浮かせた。
しかし…。
ぎろり、と雪姫が僕を睨んだ。
――今更、あんたなんかが何を言うつもり。
彼女の瞳がそう言っていた。
もはや、雪姫にとって僕は『彼女ら』と同類だということだろうか。
髪が伸び、自分を象徴する呼び名すらも捨てた僕はもう…二度と、雪姫の隣には立てないのか。
雪姫はそれからもしばらくの間、クラスメイトらの中身のない糾弾に口をつぐんで耐えていた。
僕はそれが見ていられなくて、目を逸らした。樹がそんな僕を見て、そっと肩に触れたが、今はその優しささえ鬱陶しいものに思えてしまうのだった。
樹らとの会話をなんとか切り上げた僕は、帰路につく雪姫の背中を追いかけて、正門から飛び出していた。
なんとか追いついたのは、あの河川敷の手前辺りだ。
「雪姫!」
大きな声で彼女の名前を呼べば、雪姫は華奢な肩を跳ねさせてこちらをゆっくりと振り向いた。そして、声をかけてきたのが夕凪晶だということに気がつくと、苦虫でも噛み潰したかのような渋面を作った。
横を流れる川には、すでに橙色の光が落ちていた。キラキラと水面が光っていてとても綺麗だったが、今はそれどころではない。
雪姫はぷいっ、と正面を向き直した。あんたと話すことはない、と言われているのがよく分かった。
それでも僕は、かけるべき言葉をかけるために、もう一度、彼女の名前を呼んだ。
「雪姫」
彼女は振り向かない。
「雪姫!」
とうとう振り向いた。
「なに」
白い面持ちに乗った黒い瞳が、僕を捉える。
「わ、私…」
言わなければならないことが山程あった。
例えば、さっきのこと。
止めることができなくて、ごめん、と。
あるいは、あの夏の日のこと。
どうして、そんなに樹のことが嫌いなのか、と。
そして、今までのこと。
自分から歩み寄らなくて、ごめん、と。
数えてみたら、八割近く謝罪になりそうだった。
それでもよかった。雪姫と、また同じ時間を過ごしたかった。
――だが。
「あ…」
僕は、驚きに目を丸くした。
何も言えなかったのだ。
あと一歩背中を押してやれば、僕の内側に宿る言葉たちは僕の喉から飛び出して、縦横無尽に音を紡ぐだろう。
しかし、その一歩が――勇気が足りなかった。
(どうした、言え…言うんだ、僕、いや、私は…!)
心のなかで何を唱えようと、言葉は力を帯びることはなく、雪姫を苛立たせるだけだった。
「『私』、ね」嘲るように雪姫が口角を上げる。「用もないのに、話しかけないで」
「…っ」
体を反転させて再び歩き出した彼女は、小さな声で、「だから、嫌いだって言ったでしょ」と感情の読めない呟きを最後に残した。
遠ざかっていく雪姫の背中。言うべき言葉は見つかっているのに、それが言えない自分。
ふと、僕は夢の中で彼に言われたことを思い出した。
――今のお前と話すのは、時間の無駄だ。
深い呼吸と共に、僕はその場に蹲る。
自分が言いたいことすらも、言えない自分に戻ってしまった。
言うべきことを言うときに、僕に力を貸してくれたダークヒーローは…もう、この胸の中にはいない。
(いない…?ははっ…僕が追い出したんだ。僕が本当に欲しいものを得るために…そうだ、僕が…)
本当に欲しいもの?
それは一体、なんだったんだろうか。
それは、僕が『僕』であることを捨ててまで得るべきものだったのだろうか。
それを得るために出した『勇気』は、果たして本当に、『勇気』と名前をつけていいものだったのだろうか…?
紙の上でキラキラ光っていた青い春は、今や、鈍く枯れ果てた現実に打たれて、消えていた。
ブックマーク、評価等をつけて頂いている方、本当にありがとうございます。
こちらの三章で最後の章となります。
最後までお付き合い頂けると幸いです。