白の雪が、夏に溶ける.3
ペンキが剥げた赤錆びた橋の下こそ、夏の時間を重ねる僕たちの居場所になっていた。
雪姫と喫茶店に行ってから数週間後、僕は彼女の合理性というか、勘というか、とにかく、そうした現状を分析する力の高さに感心させられることとなった。
いつもの昼休み、未だに自分からは人に話しかけられない僕は、母の作ってくれたお弁当を机の上に広げ、沈黙を友に雪姫の少し離れた背中を見ていた。
キャミソールのラインが浮いている。少し無防備すぎやしないか…なんてことを小姑みたいに考えていると、不意に隣の席に神田樹が現れた。
「お昼ごはん、一緒にいい?」
そう言って彼女が取り出したのはおにぎり二つ。
こちらの返事を待つことなく、すでにラップを取り外し始めている。この強引さが、彼女のちょっとか弱そうな見た目とギャップがあった。
適当に許可を出しつつも、僕は内心で緊張していた。
樹が本当に僕のことを好きなら、今、彼女は僕にアタックしていることになる。
ちらり、と卵焼きを咀嚼しながら樹の顔を一瞥する。彼女は人畜無害な顔つきでリスみたいにおにぎりを頬張っていた。
「しそ昆布だよ」とこちらの視線に気づいた樹が言う。おにぎりの具を気にしていると思われたのはどこか心外である。
「美味しいの」
「まあまあ」
「へえ、今度、僕も試してみようかな」
心にもないことを口にすれば、樹は小さく笑った。
本当に朗らかで愛らしい子だ。争いや謀略とは無縁に見える彼女の姿を見ていると、自分が深読みしているみたいで馬鹿らしくなる。
やっぱり、何かの間違いだったのだ。彼女が僕に好意を寄せているだなんて。
思えば、雪姫は自信満々な顔つきに対して、どこか心配性な部分がある。今回はそれが裏目に出たのだろう。
自分でもなんのため息か分からない吐息をこぼした後、僕は無意識のうちに雪姫のほうへと視線を投げていた。
夏服の袖から覗く白い肌。しっかりと手入れしているらしい黒髪。
この世を憂いているような、あるいは憎んでいるような冷たい横顔。
早く放課後にならないだろうか、とせっかちな僕が顔を出した拍子に、もう一度ため息がこぼれた。
すると、不意に樹が口を開いた。
「いつも見てるよね」
「なにを?」
脈絡も主語もない発言に眉をひそめれば、いつの間にかおにぎりを食べ終わっていた樹がぺろりと唇を舐めてから続けた。
「北宿さんのこと」
雪姫の名前が出て、ドキン、と心臓が跳ねる。
そんなにじろじろと見ていた自覚はないが、どうしてだろう…なんだか、咎められている気がした。
「そうかな。気のせいじゃない?」僕は反射的に嘘を吐いた。「たまたま、都合のいい角度に彼女がいるだけだと思うけど」
「私は気のせいじゃないと思うけどなぁ」
樹は意外にも執拗に僕の嘘を追及する。
「偶然だって」
僕はさっさと違う話題に移りたかった。これ以上、深掘りされるとろくなことにならないような気がする。それこそ、雪姫に迷惑がかかるようなことがあれば、酷く嫌な気分になることだろう。
だけれども、人付き合いの経験が浅い僕は、この状況でどのようにすれば違う話題に移ることができるかを知らなかった。
そのため、結局のところ、樹の追撃を許してしまう。しかも、また僕が困惑するような形でだ。
「私もいつも見てたから、気のせいじゃないと思う」
「いつも…って、ゆ――北宿さんのことを?」
クラスでは僕が雪姫と親しげにしていることを隠している。別にそうしろと雪姫に言われたわけではないのだが、声をかけるなと命じてくる以上、そういうことだと僕は理解していた。
「ううん、違うよ」
僕の問いを否定で返した樹は、いつかしたみたいに周囲を確認し、自分たちに視線が集まっていないことを確認すると、僕の耳元に顔を寄せた。
「夕凪さんのこと」
ぞわりとする吐息と、まさか、という言葉に僕は腰を浮かせて樹を見つめる。
樹の色素の薄い茶色がかった瞳が同じように僕を見ていた。
僕はすぐに口を開こうとしたが、発するべき言葉に迷って少しの間、沈黙を作ってしまった。
何人かのクラスメイトが奇妙な動きをする僕に対し、怪訝な眼差しを向けてくる。変に目立つのはよくない、と冷静さを取り戻した僕は何事もなかったように自分の席に腰を下ろした。
じっと神田樹の瞳を覗き込む。決して逸らすことなく見返してくる様は、彼女が頑固な人間であることを示しているようだった。
「それは、どういう意味だ」と僕は小声になって尋ねる。
「んー?多分、夕凪さんが考えてるとおりかな」
遠回しな表現だ。少し辟易としつつも、神経は昂ぶっていた。
とにかく、雪姫の予測は当たっていた。
神田樹は僕に好意を寄せている。そして、愛らしく謙虚そうな外見には似つかず、積極的だった。
「どうして、僕なんかを」
声量を落としたまま問えば、樹はコロコロとおかしそうに笑った。
「変わり者同士、シンパシーを感じたからかな」
冗談かどうかも分からなかったが、本音だろうと冗談だろうと、どちらにせよ僕はあまり好きじゃなかった。
こちらの表情からそれを読み取ったのだろう。樹はちょっとだけ真面目な顔つきになって、本当のところを話した。
「夕凪さんって、独りぼっちでも堂々としてるよね」
それはそうだ。そういうふうな生き方に憧れて育ってきたのだから。
ただ…今はもう、それを捨てようとしているわけだが。
僕の無言を肯定とみなしたらしい樹は、そのうち照れ臭そうに頬を染めると、俯きがちになって言った。
「私は…独りは怖いから。そういうふうに生きられる人って、尊敬しちゃうんだ」
孤独であっても、堂々と、自分の道を生きる。
そんな生き方を僕が示せていたとして、しかもそんな姿に感じるものがあって、好意を寄せてくれると樹は言う。
本来であれば、小躍りしたくなるほど嬉しい話だ。少なくとも、中学生の頃の僕ならそうしていたことだろう。
だが…僕は樹の言葉を受けても素直に喜べなかった。
「僕は…」
だって、僕はそれを今、捨てようとしているところなのだ。
変わり者であったとしても、独りであったとしても…自分を貫くことの強さと勇気。
僕はそれで得られたものを捨てようとしていた。
ひとえに、友だちや恋人――普通の人が手にすることができるものを欲したため。
「僕は、尊敬されるような人間じゃない」
でも、だったら僕は、どんな人間なんだろう。
かつて大事にしていた生き方を、羅針盤が示す行先を、捨ててしまえるような薄情な、半端な人間?
いや、だけどこれが大人になるってことかもしれない。
みんなに合わせて生きることが上手になること…それが…。
頭の中がぐるぐると回って、わけが分からなくなってきた。
今、遠回しではあるが告白されている。人生初めての告白だ。
それなのに、今、そのことに集中できない。
もっと、大事なものを落っことしてしまっているような気がして…。
すると、いつの間にか俯いていた視線の先で、トントン、と樹が指を叩いた。
指の先には白いA4の紙。――いや、文字が書いてある。可愛らしい丸文字だ。
――『でも、私はそういう夕凪さんを好きになっちゃったんだから、しょうがないよね』。
しょうがない?しょうがないって、なんだ。
救いが欲しくて、顔を上げる。
そこには、少女とも、大人の女性とも言えないアンバランスな面持ちで笑う樹の顔があった。
「返事は、一応、くれると嬉しいかなぁ」
彼女の指先は、よくよく見れば震えていた。
勇気を振り絞ってくれたんだ。
はたして、僕に同じことができるだろうか。
僕はそのときになってようやく、彼女の行為が気高いものだと思い知らされるのだった
雪姫と出会って、すでにもう三ヶ月と半分。
太陽の輝きは留まることを知らず苛烈さを増していく、そんな七月のある日のことだった。
コンクリートで塗り固められた校舎の屋上は、すでに人が何の準備もなしで過ごすには過酷な場所と化していた。
そのため、もっぱら僕たちは校舎内ではなく、二人の通学路の途中にある川べりで時間を潰すことが多くなった。
お世辞にも都市化が進んでいるとはいえないのどかな郊外だからこそ見ることができる、大きな河原。
そこに、大きな橋がかかっていた。とても古い橋だ。地元民以外、誰も使おうとはしないだろう橋。
ペンキが剥げた赤錆びた橋の下こそ、夏の時間を重ねる僕たちの居場所になっていた。
流れる水の音は涼やかで、清らかだ。
こうした美しい川を見ていると泳ぎたくなるし、猛暑日なんかは手ですくって飲みたくなる。
実際、僕は細かいことは気にしないほうなので、何度か川の水を雪姫の前で飲んでいた。すると彼女は、とても信じられないものを見るような目つきで僕をひとしきり見つめてから、「絶対、私以外の前でするんじゃないわよ」と言った。
僕は、川の水を飲むくらい、何の問題があるのかと不思議に思った。だが、思った以上に雪姫が真面目な顔で忠告するものだから、大人しく頷くことにした。
橋の下、流れる水に足をつける。水はひんやりしていてとても気持ちが良かった。
雪姫もどうだと誘うも、彼女は渋い表情で首を横に振った。だけど、とても気持ちが良い、と伝えたところ、ため息混じりに僕の隣に腰を下ろして同じように白い足を水につけた。
「きゃっ」雪姫の愛らしい声が響く。
「どうした?」
「…別に」雪姫は少しだけ恥ずかしそうに唇を尖らせた。「思ったより水が冷たかったのよ」
「そうか」
「なによ」
「いや、なんでもないんだ」
「ちっ、だったらこっち見んな」
相変わらず刺々しい口調だが、別に本気で嫌悪感をむき出しにしているわけではない。三ヶ月も時間を共にすれば、馬鹿でも分かることだ。
夏の熱気に当てられたためか、雪姫の白い頬がほんのりと赤くなっている。まだまだ遠い紅葉を想起させる艶やかな彩りだった。
雪姫は鼻を鳴らして手頃な小石を拾うと、ぽいっ、と絶え間ない流れの中にそれを放り投げた。
目で追いきれない放物線がぽしゃんと水面を打ち付け、波紋を生み出す。僕はそれを眺めながら、物思いに耽っていた。
雪姫と一緒にいる時間は、僕にとって新鮮で、名残惜しくて、そして、輝いていた。
『友だち役』とは言うけれど、雪姫が僕のことを毛嫌いしているわけではないことは間違いないと思う。
北宿雪姫は、どこまでいってもやっぱりエゴイスト。
したくないことはしないし、したいことは止められたってやる。
美しいと思った。その生き様が。
そんなことを考えていた僕は、ふと、同じように尊敬に値する生き方だと感じた神田樹のことを思い出した。
そこから先は、本当に思いつきだった。深くは考えずに起こした行動。
それが仇になって、僕と雪姫の間に溝ができてしまうなんて、思ってもいなかったんだ。
「神田さんから、告白されたよ」
僕はただ、雪姫と共有したかった。
僕を取り巻く出来事を、感動した樹の生き方、考え方を。
だけど――僕は雪姫のことをちゃんと分かっていなかった。
「へぇ」
興味なさそうな呟き。雪姫らしいと苦笑しながら僕は天を仰いだ。
「雪姫にああは言われていたけれど、やっぱり、いざ言われてみると――」
「断るんでしょ」
「え?」
僕の言葉を遮った雪姫のほうを弾かれたように見やれば、彼女は感情の読めない面持ちでじっと水面を見つめていた。
「だって、気持ち悪いし、迷惑だったでしょ。レズビアンに告白されるなんて」
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