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プロローグ：最初の記憶（ふりがな付き）

　今（いま）まで覚（おぼ）えている中（なか）で、最（もっと）も古（ふる）い記憶（きおく）は何（なん）ですか？

　一見（いっけん）すると単純（たんじゅん）なこの質問（しつもん）が、僕（ぼく）たちを曖昧（あいまい）な過去（かこ）の時間（じかん）へと連（つ）れて行（い）きます。多（おお）くの人（ひと）にとって、その答（こた）えは小（ちい）さな断片（だんぺん）――ぼんやりとした映像（えいぞう）や、顔（かお）の見（み）えない声（こえ）、または言葉（ことば）で説明（せつめい）しきれない感覚（かんかく）のようなものです。しかし、その記憶（きおく）を繋（つな）ぎ合わせようとすると、それは文脈（ぶんみゃく）を失（うしな）ったパズルのピースのように感（かん）じられることがあります。

　ある人（ひと）は、最初（さいしょ）の記憶（きおく）が幼稚園（ようちえん）に入（はい）った初日（しょにち）だと言（い）います。彼（かれ）は車（くるま）から降（お）りる瞬間（しゅんかん）や、少（すこ）し大（おお）きめの新（あたら）しい制服（せいふく）を着（き）ていたことを鮮明（せんめい）に覚（おぼ）えていました。母親（ははおや）の手（て）を離（はな）した瞬間（しゅんかん）、彼（かれ）は泣（な）き出（だ）しました。その出来事（できごと）自体（じたい）は何（なん）でもないように思（おも）えますが、その時（とき）に感（かん）じた恐怖（きょうふ）は強烈（きょうれつ）で、今（いま）でも彼（かれ）の心（こころ）に残（のこ）っているそうです。

　別（べつ）の人（ひと）は、最初（さいしょ）の記憶（きおく）が「痛（いた）み」だと言（い）います。ある女性（じょせい）は、歩（ある）き始（はじ）めたばかりの頃（ころ）に小（ちい）さな机（つくえ）に登（のぼ）り、落（お）ちて鎖骨（さこつ）を折（お）ったことを覚（おぼ）えているそうです。痛（いた）み自体（じたい）は曖昧（あいまい）ですが、病院（びょういん）の雰囲気（ふんいき）――眩（まぶ）しい白（しろ）い照明（しょうめい）、薬品（やくひん）の強（つよ）い匂（にお）い、周囲（しゅうい）の見知（みし）らぬ声（こえ）――それらが記憶（きおく）に深（ふか）く刻（きざ）まれています。

　また、別（べつ）の誰（だれ）かは、3歳頃（さんさいごろ）に家（いえ）の縁側（えんがわ）で朝（あさ）の光（ひかり）を浴（あ）びながらミルクを飲（の）んでいた記憶（きおく）があると言（い）います。晴（は）れた空（そら）、草（くさ）に残（のこ）る朝露（あさつゆ）、そしてその時（とき）感（かん）じた穏（おだ）やかさ。けれども、彼（かれ）がその話（はなし）を母親（ははおや）にすると、母親（ははおや）は「そんなことは起（お）きなかった」と断言（だんげん）します。それは本当（ほんとう）の記憶（きおく）だったのでしょうか、それとも子（こ）ども心（ごころ）が作（つく）り出（だ）した幻想（げんそう）だったのでしょうか。

ある人（ひと）にとっては、その記憶（きおく）は懐（なつ）かしさを伴（ともな）います。例（たと）えば、桜（さくら）の咲（さ）く公園（こうえん）で家族（かぞく）とピクニックをしたとき、新（あたら）しく買（か）った飴（あめ）を地面（じめん）に落（お）として泣（な）き叫（さけ）んだ子（こ）ども。母親（ははおや）にとっては些細（ささい）な出来事（できごと）だったかもしれませんが、その子（こ）にとっては鮮烈（せんれつ）な記憶（きおく）であり、人生（じんせい）の一部（いちぶ）となっています。

一方（いっぽう）で、その記憶（きおく）が悪夢（あくむ）のようなものだった人（ひと）もいます。ある男性（だんせい）は、妹（いもうと）が家（いえ）で出産（しゅっさん）された時（とき）の、激（はげ）しい音（おと）や血（ち）の光景（こうけい）を覚（おぼ）えていると言（い）います。彼（かれ）がその時（とき）わずか3歳（さんさい）だったにもかかわらず、その記憶（きおく）はあまりにも鮮明（せんめい）で、家族（かぞく）が彼（かれ）の話（はなし）に震（ふる）え上（あ）がったほどです。「どうして覚（おぼ）えているのかわからない」と彼（かれ）は言（い）いますが、「僕（ぼく）がそこにいたことは確（たし）かだ」と断言（だんげん）します。

また、ある友達（ともだち）は、赤ん坊（あかんぼう）の頃（ころ）の記憶（きおく）として、白（しろ）くぼろぼろの服（ふく）を着（き）た長（なが）い黒髪（くろかみ）の存在（そんざい）が彼女（かのじょ）の部屋（へや）に現（あらわ）れ、彼女（かのじょ）を抱（だ）きかかえて壁（かべ）を抜（ぬ）け、家（いえ）の前（まえ）にあるマンゴーの木（き）の下（した）まで運（はこ）んだという話（はなし）をします。その後（あと）は何（なに）も覚（おぼ）えておらず、翌朝（よくあさ）には家中（いえじゅう）が大騒（おおさわ）ぎになり、両親（りょうしん）が警察（けいさつ）まで呼（よ）ぶ事態（じたい）に発展（はってん）したそうです。結局（けっきょく）彼女（かのじょ）は木（き）の近（ちか）くで見（み）つかりましたが、その出来事（できごと）は夢（ゆめ）ではなく現実（げんじつ）だと、彼女（かのじょ）は今（いま）でも信（しん）じています。

逆（ぎゃく）に、小学校（しょうがっこう）に入（はい）るまで一切（いっさい）の記憶（きおく）がないと言（い）う人（ひと）もいます。幼稚園（ようちえん）での記憶（きおく）があるかと尋（たず）ねても、首（くび）を振（ふ）り、「何（なに）も覚（おぼ）えていない」と答（こた）えます。

僕（ぼく）にも、頭（あたま）から離（はな）れない最初（さいしょ）の記憶（きおく）があります。それは、ぼんやりとしていますが、今（いま）でも現実（げんじつ）のように感（かん）じられる断片（だんぺん）です。

僕（ぼく）がまだ2歳（さい）くらいだった頃（ころ）の話（はなし）です。観光バス（かんこうばす）の中（なか）で、夜（よる）、1リットルサイズのUHTミルクを握（にぎ）りしめて座（すわ）っていました。暗（くら）いバスの中（なか）、木々（きぎ）と静（しず）かな道（みち）を照（て）らすバスのライト。バスが向（む）かっていたのは、もしかしたらサファリパークだったのかもしれません。でも、それは定（さだ）かではありません。

ただ、鮮烈（せんれつ）に覚（おぼ）えているのはそのミルクのことです。僕（ぼく）は昔（むかし）からミルクが大好（だいす）きで、その時（とき）のミルクは、長（なが）い夜（よる）の旅路（たびじ）の中（なか）で心（こころ）を落（お）ち着（つ）かせてくれる小（ちい）さな逃（に）げ場（ば）のようでした。ひと口（くち）飲（の）むたびに、心（こころ）の中（なか）に温（あたた）かい抱擁（ほうよう）を受（う）けたような気持（きも）ちになりました。それがきっと、幼（おさな）い頃（ころ）の記憶（きおく）の中（なか）でこれほど強（つよ）く残（のこ）った理由（りゆう）なのでしょう。

記憶（きおく）の断片（だんぺん）の中（なか）には、他（ほか）の人（ひと）の姿（すがた）もあります。バスの後（うし）ろの席（せき）に座（すわ）っていた女（おんな）の子（こ）。彼女（かのじょ）は母（はは）の友人（ゆうじん）の子（こ）どもだと言（い）われましたが、彼女（かのじょ）のことを僕（ぼく）が特別（とくべつ）に覚（おぼ）えている理由（りゆう）はわかりません。

それから朝方（あさがた）の雨（あめ）の中（なか）、停（と）まったバスから降（お）りた瞬間（しゅんかん）の記憶（きおく）。小（ちい）さな木製（もくせい）のベンチに座（すわ）り、傘（かさ）の下（した）で雨（あめ）を避（さ）けながら、その冷（つめ）たい空気（くうき）と湿（しめ）った土（つち）の匂（にお）いを感（かん）じていました。でも、それがいつ起（お）きたのか、バスの中（なか）の出来事（できごと）より前（まえ）なのか後（あと）なのか、今（いま）でもはっきりしません。

記憶（きおく）とは何（なに）でしょうか。本当（ほんとう）の出来事（できごと）、それとも子（こ）どもが作（つく）り上（あ）げた空想（くうそう）、あるいはそのどちらでもないものなのでしょうか。この曖昧（あいまい）さこそが、最初（さいしょ）の記憶（きおく）を語（かた）るときの魅力（みりょく）なのかもしれません。