茜色の図書室の幻影
ここはきっと図書館だろう。
目の前には高層ビルのように本棚がズラリ整然と並び、横を見ればたくさんの本が置いてある。でも、なぜここに。何しろ記憶が無い。勿論、自分が何者かもよく分からない。あてもなく歩き出す。図書館とはいったが、大きくはない。たぶんどこかの学校の図書館なのだろう。さも長年読書家であった風に本棚の本の背表紙に手を滑らせながら歩いて行くと、読書スペースと思しきところに辿りついた。今は夕方なのか。窓から茜色に染まった空の光が差していた。窓 の方に目をやると、一人の眼鏡をかけた少女が椅子に座って本を読んでいた。艶やかな長い黒髪は夕日を反射させ、まるで彼女のオーラが輝いて辺りを照らしているようにも見える。不思議なほど寂しげに微笑みながら本を見つめ、沈黙したまま、息遣いも聞こえてこないので、このまま日が暮れるとともに彼女も消えてしまうのではないかと思った。そのときの彼女は瞬間、女神にも見えた。
「あら、まだ帰っていなかったの」
と彼女が言葉を発した。話しかけられるまでずっと彼女に魅入ってしまっていたので曖昧に口籠もってしまった。
「もう少しで下校時刻よ。貸出時間はとっくに過ぎてしまったけれど、どうしてもというなら特別 にいいわよ」
委員長権限で、といたずらっぽい笑みを浮かべて言った。ふと彼女に不審に思われないこと に疑問をもち、あたふたと自分の体を見回したが、なんと都合のいいことに、この学校のものと思われる制服を着ているようだ。どんなに慌てていたのか、クスクスと彼女は笑った。気恥ずかしい気分になり、咳払いを一つして、
「君は何を読んでいるんだい」
と言ってごまかした。彼女はまた少し笑って答えた。
「何でもないただの小説よ。私はこの作家が好き、というわけではないのだけれども、なぜか 最近はずっとこれを読んでいるの」
彼女は顔を隠すようにしてその本の背表紙を見せた。さすがによく見えないので、彼女に近づき、作者の名前を見た。
「この人、知ってる」
「本当に? 他には読んだことがある?」
「いや...」
「なぁんだ。つまらないわね」
何も悪いことをしたわけではないのに、少しあきれ顔。
「どうして最近この本に惹かれているのかを突き止めたかったのに」
残念そうにその本を閉じてテーブルに置いた。そのまま立ちあがって窓際に移り夕陽に焼かれた雲を見る。
「そういえば、」
そう彼女は切り出して、
「なぜかはわからないけれど、昔読んだあの本を思い出すわ。もしかして、あの本の作者って この人だったのかな」
「あの本って?」
とにかく会話を繋げた。この場が気まずくなるのだけは避けたかった。
「そうね、初めて会話したあなたに話すほどでもないのだけれどね。私には忘れられない一冊 の本がある。ここに越してくる前に読んだから、正確には思い出せないけれど。場所はすごく古い大きな図書館でね」
彼女は話を続けた。
「そのときの私には愛って何かが分からなかったの。あちこちで、愛は大切、という言葉を聞く けれど、肝心な愛が分からなかった私には大切さなんて言葉だけのものでしかなかった。でも、その本には、家族の愛、恋人同士の愛、人と動物との愛、そこにはいろいろな愛が溢れていた。あったかい話、ちょっぴり恐い話、悲しい話、愛ってどうしてこんなにも形を変えるのかしら。 だけど一番不思議だったのは、どの話を読んでも心が満たされた。いつまでも浸っていたくなるような感覚、愛って何かを教えられた気がしたわ。今でもあの本のことを思い出すたびに、胸が少し締め付けられるような、でも決して嫌な感じにはならない。あの本のことを考えれば考えるほど......また会いたいという思いが強くなるの」
そこで少しの間があって、窓を見つめていた彼女が振り返った。その拍子思いのほか近づきすぎていたのか、彼女とぶつかり、彼女はかけていた眼鏡を床に落とした。
「あっ、ごめんなさい」
彼女はしゃがんで眼鏡を拾いあげ、少しはにかみながら、
「つまらない話をした上に、ぶつかってしまうなんて、本当にごめんね」
そう言って照れつつ謝る眼鏡を外した彼女の顔を見たとき、重なるように一つの記憶が甦った。まだ今よりも幼かったころの彼女の顔。毎日会いにきては、何度も......僕を見つめていた。 小さな手に取られて、新しい展開がある度に目を輝かせる彼女。喜怒哀楽に対して変わる表情 を見るのはいつしか楽しみになっていた。でも、ある日を境に彼女はめっきり姿を見せなくなっ た。寂しさにくれていたときに追い打ちをかけるように“ここ”も無くなるという知らせを聞いた。それからなのだろう、僕がこの場所に辿りついたのは。
「そうか、僕は…...。」
すると僕は意識を失った。―――暖かい手のひらの感覚。
「やっと、あなたに会えたわ」
彼女は僕を胸に寄せ、離さぬようにぎゅっと抱きしめた。