第一話 黒狼メイドとお嬢様
初夏、オルブレイト。
「赤ん坊はとっても大変。でも可愛いわよ」
最近、娘の夜泣きが酷い、とリシェルはぼやいていた。
朝食の席、ブレアは先日から帝国の本校で開かれている幹部会議に出席していて、ここにはいない。
「ラードリー。夜が大変なの」
「カイエ様も、幼い頃は大変でしたよ」
「スウェイの恋路も大変ね」
「……」
食事が終わり、食器の片づけを手伝っているカイエが無邪気な一言を放ち、黒狼メイドは撃沈されていた。
可哀想にとリシェルはくすくすと困った笑いを出してしまう。
「カイエ、だめよ。スウェイのことに、口出ししては」
「はい、お母様。大丈夫、カイエの方が分かってます」
「まあっ」
カイエは将来、有能な弁舌の立つ政治家か、学者になるのかな? 女性弁護士なんかも似合いそうだ、とリシェルは次女の将来を創造した。
三人の義理の子供たちのうち、長男のリグ、長女のラグは全寮制である帝国学院オルブレイト分校に在籍しているため、週末くらいにしか戻ってこない。
とはいっても、実家から寮までの距離はたかだか魔導列車で二駅なので、大して離れているとも言えないのが辛いところだ。
リシェルとしては幼い子供たちとの時間を大事にしたかったが、学校の規則ということで仕方ない。
唯一、次女のカイエだけが、実家から学校に通う日々だ。
彼女はこれまで多くの土地をいろいろな事情で転々としてきたので、しばらくは実家から通い、落ち着いたら寮に入る手続きをしよう、とリシェルとブレアは話していた。
「カイエ様。そろそろバスの御時間」
「あっ、本当。じゃあ、スウェイ。あとお願いね?」
「はいはい、かしこまりました」
「お母様、行ってきます」
元気なカイエは肩まで伸びたこげ茶色の栗毛をふわふわと風にはためかせ、玄関へと吸い込まれていく。
その背を見送って、リシェルとスウェイはやれやれ、と朝の忙しい時間が過ぎ去ったのを実感した。
この冬に結婚式を挙げたばかりの二人にとって初めての子供が産まれたのが、この春のこと。
二十二歳のリシェルは初出産で、ブレアにとっても初めての子供だ。
三十五歳の彼は、仕事では多くの生徒を見守る学校の校長先生だというのに、この時は初めての結婚、初めての出産ということで、柄にもなく落ち着きがなかった。
普段は沈着冷静な彼が、陣痛が始まり、分娩室に入ったら人が変わったかのように、手を握り、出産の応援をしてくれる。
子供が産まれたときのはしゃぎっぷりはまるで子供のようだった。
大きな子供と生まれたばかりの小さな子供が二人いる。
リシェルは出産の疲労でやつれた顔をしながら、夫の喜び方に嬉しさを感じていた。
新しい命が誕生した瞬間、もし、彼が少しでも嫌な顔をしたらどうしよう、と不安に思っていたからだ。
しかし、その心配はどうやら杞憂に終わりそう。
ブレアにしてみれば、家族が増えたことで経済的に打撃を受けるわけでもない。
子供たちの大半はこれから十年近い寮生活だし、仕事を優先して欲しいということで、リシェルとスウェイがほぼ育児を行っている。
彼は器用な人ではないが、血のつながりがないからと、リグ、ラグ、カイエを差別する人ではなかった。
「毎朝だけど、あの子はどんどん昔みたいに元気になるわね」
「そうですね。他愛ない一言がかなり堪えますけど」
「多分、意識して言ってないと思うのだけど」
「そう願いたいところです。意識されていたら辛いなー」
とほほ、とスウェイは尻尾を垂れさがらせる。
黒狼族の侍女は、本日も恋人とうまくいかないと、どよんとした雰囲気を漂わせていた。
既に三人も血のつながりがない義理の子供がいる。
四人目は二人の実子だ。
男の子で、名前はラードリーと名付けた。
神話に出てくる、魔王と討伐した英雄王の名前だ。
彼は亜麻色の髪に鳶色の瞳だったという。
この子も同じ髪色に瞳の色。英雄王が生まれたとされる記念日に生まれたから、そう名付けた。
しかし、英雄なんてならくていいから、すくすくと育ってほしい。
母親としてはそう祈るのみだ。
「ラードリー様が、そんなに夜泣きするのですか?」
「うーん。とはいっても、初めての出産だから。なんとも言えないかな」
まだ生まれて五ヶ月の長男は、そろそろ座ることもできそうだ。
だが、この時期から夜泣きが始まるということも、医者であるリシェルは知識として知っていた。
まさか、それに悩まされる立場になろうとは、学んだ10代の頃には思ってもいなかったのだが。
「旦那様が戻られると、仕事に?」
「あの人はそんなことでは怒らないと思うけれど、安眠は難しいかも」
「まあ、それは親になった以上、仕方ないのかもですね」
仕事、といえばリシェルの開業している医院を、いつまでも休業にしておくわけにはいかない。
三ヶ月を過ぎたあたりから、ブレアが統括してるオルブレイト帝国学院の保育園に昼間は預け、夕方に迎えに行くという生活になっていた。
「イズバイアには、ちゃんと報告しているのよ?」
イズバイアとはブレアのファーストネームである。
スウェイは台所で食器を洗いながら、ふんふんと尾を動かして返事をする。
「でもそうなると、カイエお嬢様ですが」
「え?」
「そろそろ、学院の寮に入るかどうかを本人とも話し合いをしませんと」
「あ、そう、ね。もうそんな時期」
育児にかまけてではないが、仕事と両立していると、時間が過ぎるのは早い。
ブレアが戻ったらきちんと話をしなければ、とリシェルは頭の片隅に留めた。
「あの子、不安がったりしていない?」
「うーん……」
と、スウェイが黒いワンピースに白いエプロンの出で立ちで、リビングルームに戻って来る。
まだまだ授乳期間が二歳まであと一年半ほどあるリシェルはカフェインが飲めずカフェインの含まない花を煎じたお茶、スウェイはコーヒーをそれぞれ飲んで、これからの英気を養う。
リシェルはこれからラードリーを保育園に預けて仕事だし、スウェイは家事全般を終わらせてから、夕食の仕込みが待っている。
日常のことながら、二人がのんびりとできる時間は、この朝の憩いのひとときだけだ。
「どうかした?」
「カイエ様は、学院のその……」
「え?」
「分校よりも、本校の方が長いですから」
そう言えばそうだ。カイエは学院に入学してから、ブレアが発見するまでの数カ月を、本校の寮で過ごしていた。
本校の方に通いたいのだろうか、と一瞬、感じてしまう。
「あの子、帝国がいいって言ってる?」
「いえ、そうではなくてですね。新しい場所にチャレンジするのが、なんというか」
「あー、そういうことね。わたしの最初の結婚のように」
「……そこまでハードルを挙げなくてもいいでしょ、リシェル。あれは特別」
やれやれ、とスウェイは大袈裟に尻尾を振って見せた。
白黒まだら模様が左右に動き、リシェルはふんっ、と鼻を鳴らして過去をかき消す。
あれは悪い過去だったのだ。いまこそ最高に幸せなのだから、打ち消すに限る。
「特別製の悪夢だったわ。カイエは今のように通いの方がいいのかしら。家が近い子供は寮生活をしなくてもいいとは聞いているけれど。でも」
「そうなると、上の御二人が実家からになりますからね。さてどうしたものでしょうか」
窓の外に見える空に、飛行船の定期便がゆっくりと動いていて、スウェイの視線はそっちに向いたまま、じっと固定されたように動かない。
ようやくそれが窓枠の外に過ぎ去ってから、「あーあ」と侍女は大きくため息をつく。
カイエの未来に、スウェイの未来。
今はすやすやと寝ている息子を腕に抱き直して、リシェルはやれやれ、と目を細めて微笑んでいた。




