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ジャパンウォーズ  作者: kikuzirou
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エピソード2 子供たちの攻撃

 八朔(旧暦の8月1日)の朝早く、子供たちの声が響き渡る。


子供たち「起きよ。起きよ。」


 時刻は午前四時過ぎである。ここは宮崎県日向市美々津。狭野尊さの・のみこと (以下、サノ)ら天孫一行が出航したことを祝う「おきよ祭り」が始まったのである。子供たちは、短冊飾りのついた笹の葉を手に各家をたたいて回る。


 全ての家を起こし終えると、一か所に集まり「つき入れ団子」を食べる。餅とあんこが一緒になった団子である。出航が早まったため、あんこを包む暇もなく、急遽ついたことで、このような形になったといわれている。


 ここで、サノの妃の一人、興世姫おきよひめが食いついてきた。


興世おきよ「これはどういうこと? 前回は台本にない話だったから、エピソード1.5だったのよね? 今回も台本にない話だけど・・・。それにオキヨって、呼び捨てしてるし・・・。」


 そんなことを言われても、思った以上に伝承が多かったのだから仕方がない。


 船も建造し、水夫らに航海訓練も積ませていたサノは、遠見の山から凧を上げて風向きを調べ、船出を旧暦8月2日と決めた。


 ところが、物見番から、潮も風もちょうどいいという報せを受け、急遽、1日の夜明けに船出したのである。


 ここで、次兄の稲飯命いなひ・のみことが口を挟んできた。


稲飯いなひ「ちょっと待てい。作者よ。台本を読んでおるのか? 我らが船出をしたのは、10月5日ぞ。8月1日とは、どういうことや?」


 そんなことを言われても、美々津に残る「おきよ祭り」では、そう語り継がれているのである。宮崎市観光協会発行の「宮崎の神話」にも、そう書かれているのである。


 出港は、かなり慌てたものだったようで、前回紹介した、美々津の歴史的町並みを守る会が発行した「神武天皇 お舟出ものがたり」には、下記のような記述がある。


<お腰掛けの岩より立ちなんして 下知しちょんなんした みこと御戎衣みじゅうい(軍服のこと)のほこれをみつけた もぞらしいおご(可愛い童女)に、 立っちょりなんしたまま 縫わせなんしたこつから 美々津のことの別名を 立縫いの里というように なりやんしたげながの>


 要するに、座ってほころびを縫い直す時間もないほど、サノが出発を急いだと書かれている。実際、港の南部には、立縫たちぬいという地名も残っている。


 そのすぐ傍にあるのが、前回紹介した立磐神社たていわじんじゃである。サノが坐っていた御腰掛之石おこしかけのいしも境内に保存されている。


 ではなぜ、ここまでサノら天孫一行は急いだのであろうか?


 その答えは、時期にある。旧暦8月は、今でいう9月頃。台風の季節なのである。そんな時に出航しなくてもと思うのだが、美々津の人々には、それくらい無謀なこととして受け止められ、語り継がれたのであろう。ちなみに、美々津は帝国海軍発祥の地といわれている。


 一行は、美々津沖の一ツひとつがみと七ツななつばんという、二つの島の間を通って海原に出た。波が荒い日向灘に出る直前の穏やかな瀬戸である。現在「御船出おふなで瀬戸せと」と呼ばれている。


 地元の漁師の中には、験を担いで通らない者もいるという。一行が、そのまま美々津に帰ってこなかったからである。


 ここでようやく、本編の主人公、狭野尊が口を開いた。


サノ「わしは、10月5日でも、8月1日でも、どちらでもよか。それより大事なんは、この国を豊かにすることやじ。稲作、鉄器、そして灌漑技術を伝えたいんやじ。」


 ちなみに、宮崎市の宮崎神宮では、一行の船を復元した「おきよ丸」という船が安置されている。西都原さいとばる古墳群から出土した船形埴輪をモデルに作られたもので、舳先へさきなどは、美々津の日向市歴史民俗資料館に展示されている。


 話を戻そう。一行の船旅は順調に進み、一回目の補給をおこなった。「居立いだちの神の井」と呼ばれる地で、今の大分県佐伯市の米水津よのうづと言われている。食料と水を供給したことから付いた地名であろう。


 その後、一行は鶴見半島の先端に位置する、鶴御崎つるみざきを回り、大入島おおにゅうじまに到達した。佐伯市の本土側から約700メートル沖にある島である。


 船が停泊したのは、島の先端と伝えられており、その地は、日向泊浦ひゅうがのとまりうらと呼ばれている。大分県佐伯市は豊後国ぶんご・のくになので、日向ひゅうがという呼称は、サノ一行の到着が由来となっているのは明白である。


 さて、この島で、一つの物語が残っている。島に到着した時、一行は食料と水を求めた。しかし、島の人たちは、困惑した顔を見せた。


サノ「如何した? 別に差し出せとは言っておらん。貝輪かいわと交換しようと言っておるんや。」


 ここで、小柄な家来の剣根つるぎねが割って入ってきた。


剣根つるぎね「殿! 突然、貝輪と言われても、彼らには分からないでしょうから、私から説明致しまするぞ。これは大きな貝で作った腕輪で、まあ、いわゆる装飾品ですな。」


島の民「貝輪ぐらい知っておりますよ。ただ、わしらは、その貝輪と交換する水がないんです。いや、有ると言えば、有るんですが、それを差し出すと、わしらの飲み水がなくなってしまうんで・・・。食料なら少しくらいは有りますが・・・。」


サノ「水がない? それはどういうことや?」


島の民「この島には飲めるような川もなく、井戸水もなく、向こう岸まで渡り、必要な水を取ってくるようなところなんです。」


サノ「何ということや。そんな地があったとは・・・。」


 ここで長兄の彦五瀬命ひこいつせ・のみこと (以下、イツセ)も会話に加わった。


イツセ「米水津よのうづの民たちとは、えらい違いや。まだ高千穂から、さほど遠くまで来てはいないというのに、もうこのような土地があるとは・・・。」


サノ「兄上、ここは我らの出番ですな。」


イツセ「ああ、そうか。我らの灌漑技術があれば、造作もないことやな。」


サノ「島の者たちよ! わずかな食料への感謝のしるしとして、我らが、井戸を掘ろうぞ!」


島の民「えっ? そんな無理ですよ。我々も頑張ったんです。でも、水は出て来なかった。」


サノ「諦めてはならん。これだけの人数がおれば、深く深く掘り下げることもできるんや。」


 そう言うと、天孫一行は井戸掘りを始めた。そして、あっという間に地下水を発見し、井戸をこしらえてしまった。井戸が完成したことに、島の人たちは、心から喜び、天孫一行に感謝した。


 あまりにも早かったのか、同島には、このような伝承がある。サノが地中深く弓を突き立て「水よ、いでよ。」と祈ると、水が湧きだしたという。井戸は「神の井」と呼ばれ、今もこんこんと水をたたえている。


 井戸完成の翌朝、まだ暗いうちから、天孫一行は旅立った。島の人たちは、感謝の意を表明するため、浜辺で焚火をして道標とした。そして、航海の無事を祈った。これが同島に現在も続く、トンド火祭りの起源である。


 毎年1月上旬におこなわれる伝統行事で、「神の井」の傍で起こした火をたいまつで、中学校のグラウンドに運び、竹やシダで作った、高さ15メートルほどのトンドに火をつける。普通は、正月飾りを焼き、歳神様をお送りする祭りだが、この島では、意味合いが異なる。サノたちに感謝する祭りなのである。


 同時に奉納される佐伯神楽さいきかぐらでは、神の井の水を祭壇に供え、神官がヤマタノオロチに見立てた白い紐を断ち切る舞を披露する。このときには、人口800人の島に、300人以上の観光客が集まる。


 島の人たちの見送りを、サノたちは、どのような想いで眺めていたのであろうか。


サノ「ああ、あの浜辺の火を見よ。何ヵ所にも火がたかれ、我々が座礁しないようにしてくれているんや。」


イツセ「なあ、サノよ。もっともっと、このような地に、我々の技術を伝えていかねばな。」


サノ「そうや! 兄上。場合によっては、何年でも留まって伝えにゃならん土地もあるんやろうな。」


 こんなことを言っていたかもしれない。感動に包まれながら、一行を乗せた船は、火のしるべを背にして、次の土地へと向かうのであった。


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