事故
連続投稿です。
俺の名は「高戸 賢二」45歳 独身。
身長は170弱(公称170センチ)中肉中背のオッサンだ。
ハゲてないのが幸いだが、白髪は増えたな。
子供のころからマンガとアニメが大好きな所謂「オタク」だった。
晴海のコミケにも通ってた。
でも俺の時代のオタクは肩身が狭くてな。
漫研のくせに卓球部を掛け持ちとか、ファッション雑誌を読んだりとか「脱オタク」に必死だったような気がする。
おかげで彼女もいたし、いたって普通だった気もする。
漫画家になりたい夢は持ってたけれど。
とにかく運はなかった。
バブルがはじけて親父は失業。
俺は大学にも行けず、高卒で地元企業に就職。
最初の会社は今でいうブラックで、工場勤務と寝るだけの毎日。
彼女とも疎遠になり、自然消滅のように別れた。
マンガを描く時間もなく、いつしか漫画家への夢も消えた。
ワンマン会社で給料も安く、このままじゃ潰されると思い、10年で転職。
トラックドライバーや接客業、いろいろやってみたが、希望退職やら倒産やらで長続きはできなかった。
今の会社に転職したのは8年前だ。
東京近郊の化学工場。
都内にないのに「東京工場」というのはなぜなんだろう?
トラックドライバーをやってた頃、偶然に元カノと会った。
10歳ぐらいの息子といっしょで
「元気にやってるんだな」
なんて話をしたら
「あら、この子はあなたの子よ」
と笑顔で言われて、心臓が止まるかと思った。
冗談、と笑ってくれたけど、結局連絡先も交換せずに逃げるように去った。
その日からなんとなく結婚はあきらめた気がする。
理由はうまく言えない。
今の会社では8年でいろいろなことを任されるようになった。
学はないけど、マンガからの知識は豊富で重宝された。
役は付かなかったが、他の社員がやりたがらないような仕事ばかりまわされた。
実験だったり、試作品を作ったり。
化学だから、時には有毒ガスが発生したり、危険はあったけど結構楽しかった。
今日は休日出勤で、試作品の作成だ。
本来は安全のため二人作業なのだが、最近の若い奴は休日出勤を嫌う。
俺としては休日出勤の方が仕事が捗って好きな方だ。
普段はくだらない用事で呼び出され、腰を据えた仕事ができないからだ。
やれ「あの部材はどこにありますか?」とか「この製品の出荷形態は?」とか、
何でもかんでも部署を問わず俺に訪ねてくる。
業者からの外線とかもあって、落ち着いた仕事なんてできやしない。
休日出勤はいい。
静かで。
出勤してすぐにエアハン(空気調和機)とスクラバー(排ガス洗浄装置)とコンプレッサーのスイッチを入れて、試作品作成の準備を進める。
クリーンルームに部材やら原料やらを押し込み、あとはクリーンスーツに着替えるだけだ。
防塵着を着て、ゴム長を履き、防塵帽を被る。
ここで防毒マスクを使うか悩む。
防毒マスクは顔に跡が残るんだよな。
うちのスクラバーさんは優秀だし、今まで漏えいなんてミスもしたことなかったし、防毒マスクは地味にめんどくさいし。
一人ということもあり適当な言い訳をして、いつもの不織布マスクで済ませてしまった。
ゴム手袋と面体を装着して、エアシャワーを浴びてクリーンルームに入室。
試作用設備は俺の自作だ。
試作用小型タンクとエアードポンプを配管でつなぎ、間にフィルターをかませて循環できるようにしてある。
配管も単純に繋げただけじゃなく、小分けラインにサンプル採取口も完全装備。
さらにアングルでサポートを作り、コンパクトにまとめて移設も楽にした自信作。
設備を漏えい防止用大型パンに乗せ、準備完了。
各種原料を正確に測り、試作用小型タンクに入れてから、最後に濃塩酸をドラムからエアードポンプで注入する。
試作用なのでエアードポンプのエアバルブは手動で、レシピ通りに注入するのは熟練の腕だ。
エアードポンプの「ポッコンポッコン」という間抜けな音とともに、濃塩酸がタンクへと注がれ、タンクの口からは白い煙がもうもうと上がる。
白い煙はタンク口近くに設置したスクラバーに、面白いように吸い込まれていく。
当然俺のところには煙も来ないし、何の臭いもしない。
おっと濃塩酸の原料サンプル取り忘れてた。
原料サンプルを取り、丁寧に周りを拭きとる。
素手で触らないとはいえ、塩酸の液滴がついていたらシャレにならん。
原料サンプルを入れたユニパックにクリーンルーム用のペンで記入していたら、突然真っ暗になった。
停電!!
暗闇のクリーンルームの中で「ポッコンポッコン」とエアードポンプの間抜けな音だけが響く。
スクラバーが停止したので、あっという間に強烈な塩酸臭が鼻を突いた。
猛烈な嗚咽と咳き込み。
停電してもエアードポンプは停まらない。
濃塩酸は小型タンクからあふれ出し、漏えい防止用大型パンを満たしていく。
油断大敵、後の祭り。
俺にミスはなくても、外部要因によるアクシデントは想定していなかった。
いや、防毒マスクをしてない時点で大きなミスだ。
まともな呼吸もできず、咳き込みながら跪く。
結婚をあきらめた頃からこの世に未練はなかったが、こんな間抜けな死に方はしたくない。
エアードポンプの間抜けな音に包まれていたから、これは間抜けな死に方だとしか思わなかった。
とにかく逃げろ!
脱出だ!!
逃げろー!!!
パキィーン!!!
額の前あたりで、ガラスの割れたような音をした稲妻が光った気がした。
どこかのロボットアニメを思い出す余裕もないまま、俺は意識を失った。