第四話:辺境の領主はうっかり早く着きすぎる
ジョンはディック・マーレンの屋敷の前で頭を抱えていた。何故ならば、早く着き過ぎたからだ。
ジョンは先触れで14の刻に着くと書いていたのだが、今は11の刻である。整備されている馬車道を急いで走ったのだから結果は当たり前だった。
「当然、出迎えはないのだが、これは如何したものか……」
ジョンは屋敷の門が開いていたので足を踏み入れた。屋敷の庭は青々とした生け垣が美しく茂っており、花々も綺麗に咲き誇っている。
「見事な庭だ……小さいが王都の庭と比べても遜色がない。ん?……水の音がする……」
ジョンは水の音がする生け垣の先に足を踏み入れた。そこには水が上に向かって吹き出している小さな池があった。
「なっ……?! これは一体……」
水が上に向かって常に吹き上がる池を呆然と見ていたジョンは、池の向こう側に人影をみた。その人影はブロンドの美しい女性だった。齢は30歳ぐらいだろうか……服装は白いワンピースで派手ではないもののシンプルで品があり、水が噴き上がる池の景色と相まっており、一つの幻想的な情景を彩っていた。
「美しい女性だ……見たところ使用人でもないようだが、ディック殿の親戚だろうか……一緒に住んでいるなら、なんて羨ま……ゲフンゲフン……」
咳の音が聞こえたのか、その女性がジョンに気付いて近づいてきた。近づくことでその女性が蒼い瞳を持っている事に気付き、ジョンはさらに女性に惹き込まれた。
「あら? お客様かしら? どこぞのお貴族様で……」
女性は近づいた足をピタリと止め、ジョンの顔をしげしげと見つめる。ジョンは見つめ合う形となり、なんとか笑顔を作るのに必死になっていた。
「まぁ! フリーデル様?! 先触れでは14の刻の到着と伺っていたので、ゆっくり来られるのと思っておりました! 大変……皆に知らせないと!」
そう言うと彼女は急ぎ足で屋敷に向かって走り去ってしまった。ジョンは走り去ってしまった彼女を止める事もできず、手を前に出した状態で固まってしまった。
そして、しばらくすると体格の良い執事が二人の侍女を連れて、屋敷から急ぎ早に出てくる。ジョンはその執事に見覚えがあった。
「フリーデル様、ようこそお越しくださいました。お久しゅうございます、ロベルトでございます。我が主は既に待っておりますので、ご案内致します」
ジョンは10年前の記憶に頭を巡らし、当時40歳位のロベルトと呼ばれる護衛長がいた事を思い出した。
「おお、ロベルト殿! 護衛長から執事になられたのか? 10年ぶりだな、息災であったか?」
「我が主のおかげで、元気に過ごしております。フリーデル様は少し痩せられましたか? 剣などお預かり致しましょう」
ロベルトは、ジョンが大事に持っている地図の入った筒には触れず、それ以外の剣や金貨袋などをジョンから預かり、武具以外を侍女に手渡す。そして、ジョンを屋敷まで案内し、鍵付きの広めの部屋に通した。
「お預かりしていたお荷物を此処に置いておきます。本日はお泊りになられると主より聞いておりますので、お部屋にご案内する時に持っていきます」
ロベルトが侍女を連れて部屋を出で行ったのをみて、ジョンは部屋を改めて見渡した。その部屋の中央には机が置かれ、一辺の壁は平らな深緑の板のようなものになっている。
「不思議な部屋だ。作戦室のようなものなのだろうが、この板のようなものは何なのだろうか? 先程の水が噴き上がる池の存在も……これでは本当に……」
ジョンが思慮を巡らせているとガチャりと扉が開き、ディックが入ってきた。その姿はチュニックにロングパンツで腰にベルトを巻いた簡易的なものだったが、美丈夫であるのもあり非常に似合っている。
「ジョン殿から14の刻の到着と先触れを頂いていたのですが、もしかしてと準備をしていて良かったです。それでは、この机に地図を広げて頂いて宜しいですか?」
ディックは机に向かうと文鎮を取り出し、ジョンに地図を広げることを促した。ジョンはディックに言われた通り、持っていた筒から羊皮紙に描かれた地図を取り出し広げ始める。その時、扉が開く音がし、ジョンは扉の方向に身構えた。
「フリーデル様は昼食はまだではありませんか? ディックもお昼なのにおもてなしもせずに何をしてるのですか?」
ジョンが身構えた先の扉に立っていたのは、先程庭で出会った女性だった。彼女の手には何やらパンに何かが挟まれた食べ物が乗った皿がある。
「一体、貴女は何をしてるのですか? 使用人を使えば良いでしょうに……」
ディックの女性に向かって気さくに話しかけている態度をみて、ジョンはこの女性がディックの親戚ではないかと想像する一方、改めて一緒に住んでいるなら羨ましいとも感じた。
「ディック殿……この女性は?」
ジョンは自分と同じ様に8年前の疫病でディックも両親を亡くしているのも知っていたので、この女性が何者なのかを知りたくなった。ディックはしばらく黙っていたが、観念したように首を振って答えた。
「私の生母です。実は亡くなった父の正妻は子が産めない体でしたので、父は使用人であった生母に子供を産ませたのです。この事は公となっておりませんので内緒にしておいて下さい」
ジョンは衝撃を受けた。通常、出生の秘密は他人に明かすような事ではない。それに目の前の女性はどう見ても30歳代に見え、子供を産んでいるように見えない。
「フリーデル様、私はレイナと申します。少し若く見られますが、この子を産んだのは16歳の時なので、もうオバさんですの」
レイナと名乗ったディックの母親は、ジョンにニッコリと微笑みながら挨拶をした。