2
受け止めた体は驚くほど軽く、着物の重さしかないようだった。
咄嗟に手がでたが、困惑してしまう。こんなに女性とは軽いものなのか。
初に助けを求め視線を向けるが、なぜそんなことをしてしまったのかと非難するような呆れた目をされた。納得がいかず、憤慨しながら彼女の体を一部を初に託す。とりあえず二人で家の中まで運んで休ませなくてならない。女性の体にまじまじと触ったことのない徳次にとって、正に今の状況は一刻も早く離れたいものだった。
「お前のところのお客だろ」
「いや、そういうわけではないけど…」
どちらにしろこんな状態で入り口に放置できない。再度家に入るとは思わなかったが、また綿貫家に出入りすることになった。初が彼女を運ぶのを嫌がったので、仕方なしに徳次が、体を抱えて玄関まで運んだ。彼女の頭を膝に乗せる。苦しそうで顔色は土気色だ。帯を緩めて良いのかわからないので、そのままにしか出来ない。昔ながらの香油の香がした。
救急車を呼びますか、と聞くと、結構です、と囁くような声が返ってくる。その代わり水をいっぱい欲しいというので、初に汲んできてもらう。
水を渡した後初は係わり合いになりたくないのか、自分の義務はここまでだというように、早々に家の中にひっこんでしまった。
仮にも自分の家に訪ねてきた者に失礼な態度である。
渡されたコップの水を、ゆっくりと細々と飲み干した後、斜陽族の未亡人は小さく吐息をついた。
「お世話をおかけいたしました…」
病弱そうな顔色は徐々に生気を取り戻し、微笑を作れるまでに回復した。かかりつけの病院はありますか、と聞けば、家に医者がおりますと答える。しかしながら今日は一旦家に帰るというので、心配で徳次は彼女を引き止めた。
「まだ少し休んだほうがいいですよ」
「しかし…」
病人がいるのに初はどうしても玄関から先に彼女を招きいれようとしない。兄の留守中、見知らぬ者を入れてはならぬと言われているの一点張りだった。特例の事態だと説得してみても、そもそも訪問の約束はしていないというのだ。なんて義理のないやつだと思いながら、徳次は彼女の迎えが来るまで玄関で彼女と待つと言った。
「俺は構わないが、お客様は家の方に連絡はつきますか。なんなら電話をお貸し致しますよ」
「いえ、ご心配には及びません。前もって迎えを寄越すように言っておりますので…あの、」
恥じ入るように未亡人は徳次に膝は痛くないかと聞く。少し顔色は白く戻ったが、まだ膝から顔を上げられそうにない。それは全然問題ないと返すと、彼女は申し訳無さそうに目を伏せた。袖で目元を隠すのが少し色っぽい。
「お恥ずかしいです。このようなお若い方の膝を借りる事になるとは」
「どこか苦しいところはありますか」
「胸が…」
帯を緩めていただく事は出来ますか、と訊かれたので、着付けの経験もない徳次は否と答えるしかなかった。初なら出来るかもしれないと、呼びに行こうとすると、大丈夫と微笑まれた。
「何か…ご予定があったのではありませんか」
「姉の見舞いの帰りでした。帰りは何もありませんので、ご心配なく」
「お姉様もどこか悪いの」
季節の変わり目の風邪だと思います。その言葉に彼女は少し安堵した顔になった。早く治るといいわね、と言いながら体をゆっくりと起こす。急に起きて大丈夫か心配になったが、名も知らぬ女性は、ほつれた髪を指で撫で付けながら、大分良くなりましたとすっきりした顔色で言った。倒れてからまだ二十分も経っていない。
「これ以上お邪魔するわけにはいかないですから」
「何か用事があったんじゃ」
「ええ。ですがお留守のようなので出直します」
「何かお伝えする事はありますか」
徳次の提案に、お気遣いなく、と彼女は立ち上がった。まだ細い頼りない儚さがにおい立つが、これ以上女性を引き止めては失礼かと、徳次も立ち上がるしかなかった。迎えはどこへ来るのかと聞くと
「この線路沿いの先に、大通りにでる道があるでしょう。そこに車を待たせているの」
と答えた。だが見送りは丁重に断られ、玄関で別れる事になった。
「だってこんな若い方と連れ立っていったら誤解されてしまうわ」
そのまま楚々とした足つきで彼女は家を辞した。心なしか庭の湿気で、蜃気楼が彼女を未亡人をさえぎって、見えないように隠しているような気もする。時代錯誤な格好だが、ああいう出で立ちがこの時代に取り残された家には似合うのだと思う。
むしろそぐわないのは徳次のほうだ。一言家人に報告せねばと、徳次は初がよく居座っている縁側まで庭から入っていく。一度家に入るとどうしてもすぐ帰るわけにはいかないので、外から行ったほうが賢明かと思ったのだ。
玄関で倒れた女性を介抱するという一悶着があったにもかかわらず、姉は眠りについているのか一度も様子を見に来なかった。家の中は誰もいないようにしんと静まりかえっている。
庭から外に面する縁側に行けばやはり初はそこで横になりながら本を読んでいた。
「お客は帰ったぞ」
「そうか」
「見損なった」
徳次の苛立ちに気付いた初は読みかけの本から目を離し、溜息をつきながら起き上がった。
その顔はまるで徳次を責めるようで、徳次はまるきり納得がいかなかった。確かに彼女が招かざる客だということは徳次にもわかっていた。しかし病人を放っておくのは、話が違う。戸籍上の関係だとしても義弟となる初に失望したことは間違いなかった。
「お前こそ余計な事をしたな。しかも志木子さんが家にいる時に、弟のお前が家人の許しなく女を家に上げるなんてきいたこともない」
「状況が状況だろう」
「俺はあの女が誰なのかも知らないし、この家にはそういうのを狙って訪ねてくる輩が一定数いるって伝えなかったのは俺が悪かった。家人がいない時に訪ねる客は上げない主義なんだ。だからこれ以上家に変な女を上げるのは止めてくれないか。一度上げてしまった以上、俺も断りづらくなる」
無表情の初はいつもの飄々としている彼より一段と恐かった。事情を知らなかったとはいえ、徳次は義兄と姉にも迷惑をかけてしまったのだ。勝手をしてしまった事に対して、徳次は謝罪した。旧家には旧家の暗黙の了解があるのだろう。彼女はどうやって帰ったのかと訊かれたので、大通りに迎えが来ていて見送りは辞退されたと話したら、ページをめくりながらうろんげな笑いをもらした。
「車なんか呼べないだろう」
「そうなのか。だとしたら余計に家まで送れば良かった」
「とにかく連絡のない客は追い出すよう、兄貴からも言いつかっている。義姉さんもそれに倣っている。それが具合の悪そうな女であっても」