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綿貫家の日常
姉の体調が崩れたと義兄から連絡があり、屋敷に足を踏み入れたのは、
秋のちょうど季節の変わり目の時期だった。
義兄の正午から昨日連絡を受けていた。微熱なんだけどね、一人にしておくのは心細いだろうから見舞ってくれると助かる、と電話越しで余裕そうに話していたのを思い出す。自分は何かの挨拶があるから家にいられないそうだ。今年で二十六になる姉は、一年前に結婚した。ちょうど徳次が中学を卒業する頃だ。県立高校の受験を控えていた徳次を遠慮してか、籍を入れたのはその受験のあとだった。
一年前のことなのにあまり記憶がないのは自分が高校に合格するかどうか、そちらに意識が向いていたせいかもしれない。結婚してしまってから、夫の正午が近所に住んでいる資産家の息子で、道楽で絵を描いているのを知った。また同い年の弟がいることも。
同じ高校で、隣のクラスだったのは心底驚いた。名は初という。
綿貫家は両親が早世しており、今まで兄弟二人で暮らしてきた。病弱なのか、気まぐれなのか、弟の初はよく学校を休んでいる。
当の本人は古めかしい日本家屋の自宅の縁側で、ごろりと横になりながら本を読み耽いることが多い。最寄り駅から二つ手前の駅に降りる。この辺りから都市部の賑やかな駅前の店構えは気配をなくし、閑散とした無人駅に変る。駅員のいない改札に定期を滑らせ、慣れた足取りで佐々木徳次は西口から綿貫家に向かった。西口近くの踏み切りの傍に、木々に隠れた小道がある。意図的に隠したものではないだろうが、まるで見えない何かがその散歩道を遠ざけているようにも見える。そこは戦前に廃線となった鉄道の名残道だった。といっても全てが開通する前に戦争で、小道は途中で開けた道路になるそうだ。
戦前廃線となった線路は、今は木陰の涼しい散歩道となっている。線路は跡形もなく、ただ道の中心に細い小川が音もなく流れ、季節によってどこもかしこも花や、色づく紅葉で賑わうが、ここに気付く者は多くない。綿貫家は散歩道を暫らく歩いた所に建っている。
古い屋敷が立ち並ぶ、狭い塀のお勝手口から林に入り、涼しげな木陰の道を少し歩くと、高い塀に囲まれた大きな屋敷が見える。綿貫家は廃線の通りからまた更に奥にある。築地塀でぐるりと囲われた更に奥深く老樹で埋められた庭園がまた屋敷を目隠ししている。木々と塀に隠されたその屋敷の入り口は、容易に見つけることは叶わない。初めて訪れた時、徳次は家を探すのに手間取った。
朽ちかけた築地塀をなぞって行くと、先に小さな門が構えている。閉ざされた入り口からは、湿気の漂う薄暗い影が色濃く、訪問者の拒絶が強い。日当たりの良い土地なのに、木々に断絶されたその家はいつも独特の静けさを滲ませている。そのくせ塀の入り口は鍵が壊れていて、ここまで辿りついた者だけが気安く敷居を跨げるという寸法だ。
しかし一度入ってしまえば、今は紅葉で色づいた庭木に紛れて帰り道が分からなくなる。森のような庭を抜け、今では珍しくなった一文字の入った土蔵を横目に、石畳をなぞると、やっと玄関が緑の奥からのぞく。一本道に、前に進むしか出来ない徳次は、庭のあちこちを散策する気もないので、この邸宅がどれほどの面積を有しているのか想像もつかない。
石畳に沿いながら徳次は、駅前で買ったスポーツドリンクとヨーグルトを手に持ち息をついた。ここにはインターンホンといった、この広い家屋には欠かせない機能が備わっていない。初めて訪問した際には、声をかけたが誰も返事をしなかった。まさか誰もいないのではないかと危惧した徳次は、玄関の戸を叩いた所、綿貫初がひょっこりと顔を出した。義姉さんの弟?、と呆気にとられる徳次にそう問いかけた。
綿貫は周りの大人や夢見がちな女子から好かれるような、感情の機微に長けるであろう繊細な風貌を持ち、多くの誤認識に晒されていた。徳次もその一人であった。大胆な仕打ちを何気なく人に寄越すが、さりげないからこそ言い訳などしなくても、涼やかな見た目のおかげでいくらでも相手側が理由をさがしてくれる。全くいい性格をしている。
あの時家人に入れてもらった徳次は、目が回りそうな広大な敷地に圧巻されながら、靴を脱いだ。今日はこれでこのお化け屋敷に訪れるのは何度目になるのか。
二駅も離れているこの家に度々顔を出しているのは、
綿貫家に嫁いだ姉の志木子の様子を見に来る言い分もあるが、肝心の姉は大抵義兄と連れ立っていつもどこかへ出かけている。それでも通っているのは、おおっぴらに娘に逢えない父親の代わりに、息子を娘の嫁いだ家に寄越しているのだった。
しかしながら徳次は再婚で出来た息子で、生まれた際に母は亡くなったので、実質父彰浩と姉志木子に血縁関係は無いのだ。それでも父の彰浩は息子以上に姉の志木子を大事に育てていた。嫁に行ったときにはとても寂しがっていた。
徳次とは元は義理の兄弟になったが、距離は相変わらず学校の同級生のままだった。
雨のせいで余計に重々しくそびえる門構えに時代錯誤な、と気をやりつつたたきで
ごめんくださいと声をかける。
しばらくして遠くの廊下から初が顔を出した。
「義姉さんのお見舞い?」
「熱があるんだって」
とにかく上がってと初に促され徳次は、来る途中で寄った商店のスポーツドリンクを手に靴を脱いだ。
一番奥の一番日当たりの良い和室に布団が寝かされている。
義兄に姿はなく、仕事に出ていると初から説明された。
久方ぶりに見た姉は意外に顔色は悪くなかったが、少し息が苦しそうだった。早速部屋に入り、声をかける。額に手を当てると少し熱い。
「大丈夫か」
姉は静かに大丈夫よ、と微笑みながら息をつく。
「初くん、ごめんなさいね、徳次まで連れてきてもらって」
「いえ」
「長引いているようなら、一回実家で療養すればいい」
ここに居ても初以外に看病できる者は居ない。初に任せられるとの思わなかったので、提案した徳次にだめよと志木子は言い放った。
「嫁いだ者がそんなことで実家に帰れないわ。初くんは迷惑かもしれないけれど、初くんを一人にはしておけないもの」
今時そんな古臭いことを言えるのが姉らしかったが、今回は姉の意思を尊重することにした。
ひと月に一度は嫁いだ姉の家を訪れている弟に何も言わない旦那には感謝している。たまにこうして訪問の材料も与えてくれる義兄が徳次は嫌いではなかった。古いが手入れの行き届いた家屋で、嫁ぐ前より裕福で大事にされた生活を送っている様子に、徳次は安堵を覚えていた。
姉が家に帰りたがらない理由は前から知っていて、これ以上言及できなかった。
「俺は大丈夫だよ。たまには実家で骨休みしてきたらいいのに」
初がタオルを姉に手渡しながら、あっさりと実家の帰省を勧めた。姉いわく、実弟より気安くて気取らない可愛い義弟が徳次が苦手だった。ひょろりひょろりと地に足がついていなさそうな、男子高校生らしからぬ雰囲気が、どうにも徳次の庶民的な気質に合わない。
姉はもともと贔屓目に見ても美しい人で、この浮世離れした家にも最初から馴染めていた。
「ダメよ。風邪くらいで一人で高校生を残すわけにはいかないわ。そういうことだから徳次、来てくれてありがとう。もう帰りなさい」
「本当にいいのかよ。父さんも心配する」
「アキちゃんにはもう治ったと言えばいいじゃない」
ここまで来たら引き留める術もない。お見舞い品を受け取り、姉は早々に徳次を追い出した。玄関先まで初が付いてくる。困ったら自分の家に泊まりに来いとは言ったが、初はその申し出を丁寧に辞退した。
「なんとかなるさ。今までたいていのことはひとりでこなしてきたし」
「本当に困ったら連絡してくれよ」
「そうしたら佐々木、お前がこっちに泊まればいい」
唐突の提案に徳次は諾とは答えられなかった。いくら姉がいるからといって、嫁ぎ先の家にそうそう泊まれるわけがない。友人でもない宅に一泊でも泊まるのは気がひけた。どうにもこの家には長居出来そうになかった。一瞬何の反応も返せない徳次に、初は訳知り顔で試すような笑みを浮かべた。
「こんな古い家に泊まりたくはないか。姉弟だもんな。そういうところは似ている」
「姉が言ってたのか」
「口には出さないがこの家があんまり好きではないらしい。新しくはないもんな」
長い長い庭から抜け出すのに時間がかかりすぎている。あまり耳に入れたくない情報までも、入ってきてしまう。早く切り上げたくて鬱蒼とした庭を早足で歩いた。姉のことが気にかかる。
確かにあの家は長居すると気が滅入ってくる。時間に取り残されたような閉塞感で胸が苦しくなる。だが家から出てしまえばその拘束もあとかたもなく消え去るのだ。姉はそこに毎日いるのが少し心配だった。やはりこの感覚は徳次だけではなかったのか。長年暮らしている義兄と初はよほど神経が太いのか、すでに慣れてしまって知るのか。
やっと出口の門扉が枝の影から見えてきた。今の話は聞かなかったことにしようと、切り上げようとした途端に、目の前に人影が立っているのが見えた。今まで気づかなかった。
誰かが門に寄りかかっている。女である。徳次がまだ生を受ける以前の時代に相応しい、今では見かけない、和服に西洋結びの黒髪が目立った。白に近い卯の花色の生地に、肩から袖にかけてうっすらと薄い白の萩が微妙な陰影で描かれている。帯はその分鮮やかで、水浅葱、露草、縹、群青の桔梗がそれぞれ競うように散りばめられている。女が一人立っていた。
やけに細く、日本人形のような顔立ちだった。今となっては美しいのか、影が薄いのかよく分からない顔立ちの女だ。はっきりと美しいと分かるのは、瞳の上の形のいい眉だけだった。すっと整った霞眉である。そこに目がいってしまい、顔だちはぼやけてかすんでしまう。
この隠れ宿のような家屋には、夕方の時刻、結構な数の訪問客が立ち寄る。
徳次が週番当番の後、図書館に寄り綿貫家に訪れるのがすっかり遅くなってしまった時だ。初老の品のいいサラリーマン風の男性と、腰の曲がった不自由そうな老人と、徳次は道すがら行き通ったこともある。木々の小道から合流し、歩けど歩けどたどる道が交わり続ける三人は、築地塀に到着した段階で、目的地が同じだということに気付いた。ここらは綿貫家一軒しかなく、その先は道がない。
結構な資産家だから俗世に沿わぬ珍客も多いのだろう。
しかしこの女はどうしたのだろう。いかにも幸薄そうな色気がある。一昔前の斜陽族の未亡人に似た雰囲気があった。目が離せなくなる前に、初に「正午さんのお客さんか」と促して帰ろうとした。
視線が少しだけ交わり、女がひどい顔色をしているのに気づいた。死人の肌をこちらにさらされて、徳次は立ち止まってしまった。
うつむき加減の体は徳次の姿を認めた瞬間、華奢な落ち葉のようにはらはらと前かがみにくずおれた。