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辻隆弘⑩

 武井(たけい)法子(のりこ)――の、アカウントをのっとった「のりこさん」――とのやり取りを終えると、隆弘(たかひろ)は深々と溜息を吐いて椅子に背を預けた。緊張の糸が切れたことで、しばらく呆けていたいけれど、それもできない。溜息のような深呼吸のような長く重い息を吐きながら、SNSをログアウトする。立ち上がって、ルーターの電源を落とす。矢野(やの)氏は、のりこさんはネットを介して「やってくる」と考えていたようだったから。もちろん、隆弘の自宅にあの白い()が来るなら、彼は今ごろとっくに取り殺されている。だから、のりこさんはまだ彼を見つけられていないと考えるべきなのだろうけど、でも、ネットやSNSに繋がった状況では、安心も油断もできなかった。


 のりこさんに指定された待ち合わせの場所と日時は、既に手元にメモしてある。愛用の手帳、つまりは物理的な紙に、ということだ。電子的な形でメモやスケジュールの管理をしないのは彼の常でもあるのだけど、ことのりこさんが相手とあっては、この方が安全だろうと思いたかった。


 ふと気付けば、隆弘が着ているシャツは汗で不快に湿っていた。冷汗であり、緊張と興奮のためにかいた汗でもあるだろう。喉も干上がっているし、全身に力が入っていたのだろう、妙な疲れと痛みも四肢のあちこちから感じられた。すぐにシャワーを浴びてベッドに飛び込みたいところだが――彼はまだ、休むわけにはいかなかった。




 とりあえず、冷蔵庫に冷やしてある麦茶をコップに二杯、立て続けに飲み干した。そうして最低限、まともに喋れるようになったところで、隆弘はスマートフォンを手に取った。画面をタップして打ち込むのは、今日登録したばかりの番号だった。


『もしもし。矢野(やの)ですが……!?』

「――(つじ)です。今日は……その、ありがとうございました」


 時刻は夜になっているが、深夜というほどでもない。とはいえ、いわゆる営業時間の外ではあるし、出会ったばかりの異性に架けるにはやや不適切なタイミングではあっただろう。なのに、何コールも鳴らさせずに電話に出た矢野氏は、スマートフォンの前で待ち構えていたのではないだろうか、という気配がした。


『あの……お話した件のことで、何か思い出されたんでしょうか……!?』

「いえ、すみませんが、まだ」


 期待を隠し切ることはできず、でも、信じた後で裏切られることも怖いのだろう。矢野氏の抑えた息遣いや、やや早口な調子から彼女の心情が感じられる気がした。恋人を亡くしたばかりだというこの女性に、こんなに気を揉ませていたこと、それに、さらりと嘘を告げたことに、隆弘の胸は罪悪感に締め付けられた。

 矢野氏が頼んできたように、武井法子の――norikoの、アカウントを削除するだけなら、話はもっと早くて簡単だったのに。複数の人間の命を奪ったかもしれない「のりこさん」現象の解決よりも、旧知の人間を優先してしまったこと。それは結局のところ、隆弘の勝手に過ぎないのに。


『そう、ですか……』

「パスワードの方は、まだなんですが……。すみません。SNSのアカウント作って、例のアカウントにメッセージ送っちゃいました」

『な……っ』


 それに、約束を破ってしまったことを打ち明けるのも、申し訳ないことだった。矢野氏は、のりこさんの危険をちゃんと忠告してくれたのに。信じられない、という響きの喘ぎに、非難の感情も混ざっているのを聞き取って、隆弘は少し苦笑した。申し訳ないのは本当なんだけど。でも、重要なのはこの()だった。


「本当にすみません。どうしても、知人の武井法子じゃないのかどうか、あいつが……死んでしまってるなら、どうしてそうなったのか。確かめたいと思ったんです」

『辻さん……お気持ちは、分かる……と、思うんですけど。あの、大丈夫、だったんですか……!?』

「はい。ちゃんと生きてます。あんな……見せていただいたみたいなことは、起きませんでした。ただ――」

『……ただ?』


 隆弘の笑みが、深まる。あるいは、口元が引き攣っただけなのだろうか。知っている人間のアイコンを纏った存在が、実は全く違う、訳の分からない存在だった。()()()と、和やかに会話できてしまった。でも、メッセージの一往復ごとに、武井法子では()()と突きつけられて絶望し恐怖した。先ほどまでの異様なひと時、その間に味わっていた緊張を思うと、顔の神経が彼の意思と関係なく動いてしまうようだった。

 舌も、また。別に言わなければいけないことではないはずなのに、隆弘はべらべらと矢野氏に語っていた。回線の向こうで彼女が絶句する気配をありありと感じながら、まともな会話を成立させるような気遣いをすることはできなかった。言葉にして吐き出しておかないと、あの恐怖に心が蝕まれてしまいそうだった。


「あれは、武井じゃないですね。あいつが知ってるはずのこと、あっちは――あのアカウントを使ってる()は、何も知らなかった。幾つも変なことを書いたのに、何にも反応しなくて……! だから、分かっちゃいました。昼間、分かったはずなんですけど。俺の知ってる武井は、やっぱり死んじゃってるんだなあ、って」

『辻さん……辻さん、ですよね?』


 怯えたように尋ねてくる矢野氏に、隆弘はまた少し笑った。この女性は、彼がのりこさんにのっとられているのではないかという不安に駆られたのだろう。何が起きるか、何ができるか分からない怪異が相手であることを考えると無理もない。でも、またも矢野氏に悪いとは思いつつ、彼は心の片隅で安堵していた。


(俺はやっぱり、()()()の方が良いな……)


 SNS上の、デコレーションに彩られたメッセージでのやり取りも、一見感情豊かには見えるのだけど。あれが良いという人や場合も、きっとあるんだろうけど。それでも、彼には声を介してのやり取りが分かり易かった。矢野氏とは一度会っただけだけど、声だけじゃなく、言葉遣いや間の取り方、隆弘を気遣う調子、「のりこさん」に怯える息遣い――そんなものから、確かにあの女性だと分かる。相手が生きた人間だと実感できる。当たり前のはずのことが、今はこんなに嬉しく心強いなんて。

 だから、次は隆弘が矢野氏を安心させなければ。独り言めいた吐き出しはほどほどに、ちゃんと彼女と相対してあげないと。隆弘は、努めてはっきりと、明るい声を出した。


「はい。俺は、俺です。のっとられてない……はず、です。あいつ、フォローしろって言ってきたけど、しなかったんで。だから……居場所も、知られていない。あの()も、出てこなかった」

『やっぱり、フォローがトリガーになっちゃう、ってことでしょうか……』


 さすが、矢野氏は呑み込みが早い。それだけ亡くなった恋人の遺した記録を熟読したのだろうか、と思うと痛ましくもあるけれど。とにかく、多くを説明しないで済むのは助かった。隆弘の精神も身体も、疲れ切ってしまっているから。


「そう、だと思います。それにあいつ、俺を怖がっているんじゃないか、と思いました。しつこいくらい、フォローさせようとしてきて……つまり、どうにかして俺を消したいんだろうな、という感じがしました」

『辻さん……だから、危ないって……!』


 矢野氏が悲鳴のような声を上げたので、隆弘は携帯電話を少し耳から離した。非難まじりの忠告が続きそうなのを遮って、できるだけ低く、ゆっくりと語りかける。近しい人間を「のりこさん」に奪われたこの女性と隆弘は、戦友のようなものだ。こんな常識を外れた事象を、他の人間に説明できる自信もない。だから、彼女を説得して、納得させなければいけない。彼が、これからしようとしていることに。


「でも、チャンスでもあります。俺が囮になれば、のりこさんに()()()かもしれない。あっちから来るのを待つんじゃなくて、こっちから迎え撃つことだって……!」

『そんなこと……洋平(ようへい)は、お札とか用意しても……ダメ、だったんですよ……!』


 今まで二人して言葉にするのを避けていた()()の名を、隆弘は敢えて口にした。怖がり過ぎる必要なんてないと、自分と矢野氏を鼓舞するために。名前を呼んだだけでやってくる、なんてことはきっとない。()()はネット上の存在で、決して万能ではないと、ついさっき確かめたところなんだから。


「待ち合わせの約束をしたんですよ。同級生だったから……久しぶりに会いたい、って」

『でも……武井さんは……』

「武井が来る訳じゃない――あいつは、来れない。だから、俺をおびき寄せたつもりなんでしょう」

『そんな、どこで、どうやって……!? 辻さん、普通じゃないですよ。興奮されてる、と思います。落ち着いてください……!』


 矢野氏の方こそ全く平静さを欠いているから、隆弘はまた思わず笑ってしまう。もちろん声には出さず、吐息があちらに聞こえるかどうか、程度の反応ではあったけれど。そして、多分彼が興奮しているのも言い当てられてはいる。

 異常な現象に立ち合ったこと、知人の死を何度も何度も突きつけられたこと、のりこさんとかいう訳の分からない存在への怒り、SNSに感じた不気味さ。そんなことの全てが、彼の神経を逆なでて、饒舌にさせているのだ。


「落ち着いては……いない、んでしょうが。でも、自棄になっている訳でもないと思います。……パスワード。すみません、実は、心当たりがあるんです」

『辻さん……っ!』


 本当にこの人に対しては謝ることだらけだな、と思う。勝手をしたことも、大事なことを言っていなかったことも。でも、今こそ全てを曝け出さなくては。勝算があると、理解してもらうために。最悪の場合でも、norikoのアカウントを削除するという彼女の望みは、叶えられるはずなのだ。それを、最低限の保険として考えてもらうしかない。


「今日の今日で、申し訳ないんですが……また、直接お会いできますか? 詳しくは、会って話した方が良いと思って」


 武井法子の振りをしたのりこさんといい、今の矢野氏に対してといい、今日の隆弘はやはり奇妙なテンションになってしまっているようだ。こんな不躾な誘い、普段の彼なら絶対にしないのだけど。でも、おかしいのは彼だけじゃない。下心があるであろうのりこさんはさておき――こんなことを言われてもなお、矢野氏が断ることはきっとないのだ。

次回、閑話を挟んで、さらにその次より終章です。

カクヨム(https://kakuyomu.jp/works/1177354054887761122)にて3話先行しています。

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