長谷川洋平⑦
(やばいやばいやばいやばい……!)
頭を埋め尽くすのが悲鳴なのか快哉なのか洋平には区別がつかなかった。口元が歪むのは恐怖に引き攣っているのか、こらえきれない笑みなのかどうかも。
葉月千夏は、多分のりこさんに遭って死んだ――殺された。彼女のSNSに現れたのは女の姿の「幽霊」だけ、この手に襲われたのかどうかは分からない。でも、とにかく本物の怪奇現象には違いない。だから、絶対に危ないのは確かなはずだ。
でも、一方でこれは滅多にない貴重な体験でもあるはずだった。やらせでも合成でもない、錯覚である余地さえない。ホラーファンやその手の現象の研究者が羨む機会に、彼は巡り合ったことになる。否、彼の場合は自ら突っ込んで行ったのか。でも、だからこその快感でもある気がする。正解を当てるのは気分が良いものだ。彼の仮説に従ってのりこさんに接触して、そして質問によって挑発できた。これでのりこさんの真実にも近づいているはず。そう、秘密を明かすのも本能的な喜びのはずで――
「うわあぁあっ」
と、視界がまだ白で塞がれて、洋平は床を転がった。顔を掠める冷気を冷気を避けようと首を捻ると、机の脚に思い切り頭をぶつけてしまう。
「この……っ!」
振り回した手に当たった何か――多分倒れた時に散らばっていたお守りのどれか――を掴んで投げると、白い手は怯んだように少し遠ざかった。お陰で洋平には立ち上がってひと息吐く余裕が生まれる。
(効くことは効く、のか? でも、入って来ちゃうのは止められない……?)
通販で手に入る程度の品の限界、なのだろうか。少しでも時間稼ぎできるなら上出来と思うべきか。とにかく、脅威が一瞬でも遠ざかった隙に、洋平は机上に手を伸ばしてスマートフォンを手に取った。手の挙動を見張りながら手探りで起動させるのは、カメラ機能だ。
「映れよ……」
震える指先のスワイプひとつで、動画撮影モードに切り替えて、顔の前で構える。小さな画面に映る自室の風景は、見慣れたものとは決定的に違う。真ん中に佇む青白い女と、まだ彼を狙ってか宙に揺れる腕。撮影できているかどうかは分からないが、少なくとも、画面越しでも室内の怪異ははっきりと視認できる。テレビなんかでよく見る心霊写真やら恐怖映像やらに映る幽霊がぼやけた影ばかりなのを思い出すと、今となっては馬鹿馬鹿しい。あんなのは光の加減でそれらしく見えるだけだ。本物は、静止画でズームアップしたりスローモーションにしたりするまでもなく、線を引いて無理矢理人型に見せるまでもなく、嫌でも目に入るものだったのだ。
「のりこさん……? 武井、法子さん……? 貴女が……?」
洋平がnorikoにした最後の質問は、どちらが本物ののりこさんなのか、というものだった。彼の問いに答えて名前や年齢を教えてくれた方と、それを嘘だ邪魔するなと割って入った――ように見えた――方。わざわざ現れてくれた以上は、教えてくれると考えて良いのだろうか。
スマートフォンの画面に映る女の顔が、小さく、けれど確かに頷いた。意思の疎通が、できているのだ。動揺と興奮に身体が震えて、手がぶれる。幽霊とのインタビュー動画、きっとこんなのは初めてだ。あまりにもはっきり映り過ぎていて、信じてもらえなさそうな気もするけれど。いや、でも、武井法子なる人物が実在すると、証明できたらまた話も違うはずだ。
「貴女は……どうして、こうなったの? SNSに出るのはなんで? 葉月千夏……モデルの子は、貴女が……殺した、の?」
上擦って掠れて、吃りがちになる彼の声も、スマートフォンのマイクは拾っているだろう。ぶれる映像と相まって、臨場感を伝えてくれるか、それともよりわざとらしくなってしまうだろうか。
片手でスマートフォンを構えながら、洋平はもう片方の手で机の上を探った。たっぷり買い込んだはずのお札とか、魔よけの鈴を握っておかなければ、と思ったのだ。お守りが効くらしい、という一点が辛うじて彼に余裕を与えてくれていた。目も忙しく動いて、手の動きを見張りながら、「のりこさん」――法子さんの様子を窺う。
葉月千夏の名前を聞いた途端、彼女は身体を震わせた。悲しげに顔を歪めて激しく首を振るその様子は、普通の女の子に見えなくもない。白すぎる肌、どこか透けたようなのっぺりとした存在感のなさ、体温を感じさせない佇まいさえなければ。つまり、彼女はどうしようもなく異様で、明らかに生きていないということになる。
(自分がやったんじゃない、ってことか? じゃあやっぱり……祟るのは、こっちの方か……!?)
部屋の中に白いテープが張り巡らされたように見えるのは、パソコンのモニターから生えた手が伸びてさ迷っているからだ。白く細い指は女の手を思わせる。腕の華奢さも。武井法子(?)の手は、彼女の胸の前で組み合わされている。だから、この手は、彼女以外のものということになる。武井法子も最初は被害者だったということ、なのか。でも、じゃあ、どうして今は同じアカウントに同居しているように見えるのだろう。
と、女の方に注意を向けていると、下の方から手が襲ってきた。冷気を伴う風を感じて、洋平は咄嗟に掴んでいたお札を投げつける。
「わ、来るなっ!」
手がもがく横をすり抜けて、部屋中に延びる白く冷たい腕を掻き分けるようにして、洋平は扉の近くへと動いた。そこもお札が貼ってある。退路は確保した上で、名残惜しくというか往生際悪くというか、女の幽霊にスマートフォンを向ける。
「助けて、って言ってたでしょ……どうすれば良い? 教えてよ……!」
武井法子と思しき女の、青褪めた唇が軽く開く。幽霊に声が出せるのか、唇の動きを読まなければならないのか。スマートフォンを構えつつ、肉眼で女の顔を凝視していた、その時だった。
「うわ……!?」
洋平の視界が回転した。武井法子の頭がくるりと下を向き、天井も壁も位置を逆転させる。転倒した、と気づいたのは肩が床にぶつかる痛みを感じてからだった。転倒した――というか、させられたのだ。床を這うように忍び寄っていた、あの手によって。
肩の次には、手に衝撃が走る。スマートフォンが、洋平の手中から弾き飛ばされたのだ。手元にお守りは、もうない。手が届く範囲に落ちているのも、見当たらない。対策を求めて手足をばたつかせ、首を巡らせて視線を右往左往させる間に、身体が冷気に包まれた。異様なほど、蛇のように伸び切った腕が、洋平の全身に絡みついてきたのだ。
「何だよ、これっ……!」
風船から空気が抜けるみたいだ、と思った。触れられたところからごっそりと何かが抜き出た――あるいは、吸い取られているのが分かる。倒れたところから立ち上がる力さえ、一瞬にして失われる。
(すぐそこ、なのに……!)
腕が鎖のように全身に巻き付いているのを感じながら、洋平は必死に床を這った。視界の端で、武井法子(?)が芽を見開いているのが見えた気もするけど、もうインタビューの続きどころじゃない。逃げないと、ということしか頭にはなかった。横長のドアノブ、ちょっと手をかけて下に押せば廊下に出られるはずのそれ、いつもなら意識もしないで触れているはずのそれが、今はおかしくなりそうなほど遠かった。
腕に抗い、何か――もしかしたら魂、ってことなのか――が引きずり出されているのを感じながら這い進むのは、蛇が脱皮しているところのようだったかもしれない。皮を後に残して、ひと回り小さくなった姿で進んでいくのだ。いや、むしろトカゲの尻尾切りか。切り捨てるのは、尻尾だけで済むのか。
そんな、現実逃避のようなことを考えながら、洋平は扉までの距離を縮めた。扉に取り縋るようにして膝立ちになり、力の入らない手でドアノブを掴む。でも――
「痛……っ、何だよ……!」
ぴし、という音と共に、洋平の手はドアノブから弾かれた。静電気にしては激しく鋭い痛みと音。もう一度、と手を伸ばしても、同じ衝撃に襲われるだけで。
(まさか……?)
不可解な現象の心当たりは、あった。のりこさんに接触するにあたって、部屋のあちこちにお札を貼り、四隅には盛り塩をした。当然、この扉にだって。
恐る恐る、扉の真ん中に貼ったお札に手を伸ばしてみると、三度目の痛みを味わうことになった。漫画とかでよくある結界というやつが、できてしまっているらしい。
「嘘だろ……効果あり過ぎだろ……」
だって、ネットの通販で入手した程度のものなのに。見よう見真似ですらない、素人が「それっぽい」イメージで貼り付けただけなのに、洋平はのりこさんと一緒に部屋の中に閉じ込められてしまったらしい。
「出せよ! 開いてくれよ!」
なけなしの力を振り絞って拳を握り、扉に叩きつける。それでも結果は同じ、扉は開かない。それどころか、全身をばねにして体当たりした分反動は大きく、洋平は弾き飛ばされるようにして床に崩れ落ちた。
「う……」
呻いた視界の半分は、床。床に頬をつけた体勢で、衝撃に打ちのめされて咄嗟に動けない。視界のもう半分からは、白い手がまた迫っている彼の全てを搾り取ろうと。そして床と手の狭間、視界の隙間に、さっき投げ出してしまったスマートフォンが転がっている。
そのスマートフォンが、着信を示すランプを点灯させて振動していた。




