葉月千夏⑪
白い手は氷のように冷たかった。この世のものではないはずだから、感触、というのはおかしいのかもしれないけど。ドライアイスを押し付けられでもしたかのように、冷気が肌を刺す痛みとして感じられた。
「助けてっ、誰か……!」
唇にもその鋭い冷たさが刺さるのを感じながら、千夏は必死に叫んだ。消灯後の真っ暗な病室に、扉がぼんやりと白く浮かび上がっている。千夏は一番奥のベッドを占めていたから、普通ならほんの数秒で届くはずのそこまでの距離が、果てしなく遠い。それでも千夏が転がり落ちて、あちこちをぶつけて色んなものを倒した騒音は響いているだろうに、今だって絶え間なく悲鳴を上げ続けているのに、廊下から聞こえるのはしんとした静寂だけ。誰も、駆けつけてくれる気配はない。
(聞こえてないの……!?)
昼間、事務所の会議室で。沢村は扉が開かないと叫んでいた。同じように、のりこさんの何らかの力で千夏の声も聞こえないか、外からも開かない状況なのだとしたら。
「やだ……助けて……!」
そんなはずはない。扉まで行けば、開けることさえできれば人を呼べるはず。根拠のない、儚い希望に過ぎないけど、蜘蛛の糸に縋るような思いで千夏は懸命に扉へと這おうとした。床のタイルの溝に爪を立てて――でも、それだけだ。形を整えて磨き上げた自慢の爪が欠けて割れる、悲しい感覚がするだけで。千夏の身体は、少しも前に進んでくれない。
『はは、良い気味だ。泣け、喚け。もうどうにもならねえよ!』
スマートフォンから、佐竹が嗤う声が聞こえる。冷え切った白い手を操るのは佐竹なのかのりこさんなのか。分からないけれど、でも、彼は事実を述べているのだと分かる。分かってしまう。
(やだやだ怖い……死にたくない……!)
事務所で、先に白い手に襲われた佐竹が、どうしてあんなに叫んでいたのかも、分かる。手が触れたところから、千夏の何かが奪い取られている。吸い取られている。体力、体温、生命力、あるいは、魂、とか。とにかく千夏の大切な何かが。
SNSに書き込まれたことが、頭を過ぎる。
――のりこさんはSNS上ののっとり霊ですよ。取り憑いた人のリアルを探し当てて、取り殺しちゃうんです。
のっとり、って。投稿した画像にいつの間にか写り込んでいることかと思っていた。画像をアップできるのは、本来アカウントの持ち主だけなんだから。佐竹に疑われたように、普通なら千夏自身がその画像を投稿したとしか思えないだろうから。アカウントをのっとたかのように見える、ということなのかと。
でも、そうじゃなかった。のっとり、っていうのは、文字通りのこと。千夏の全てが奪われていく――のりこさんに、のっとられていくのが分かる。佐竹がのっとられて、沢村の番号が知られてしまったように、千夏の記憶も思考も吸い上げられて汲み取られていく。SNSに棲む幽霊だから? まるで自分自身が分解されて情報だけの存在に変えられていくような感覚。自分が自分でなくなる、何もかもが暴かれていく感覚は、もしかしたら死ぬこと殺されることよりも怖いかもしれない。
「や……だぁ」
少しでも扉に近づこうと手足を動かそうとしても、でも、千夏はもう自分の身体を思い通りにすることさえできなかった。声を上げて泣き叫びたかった――助けを呼べるなんて思ってないけど、恐怖を紛らわせるために――けど、舌にも喉にも力が入らない。五感の全てが鈍って、千夏という存在が溶けてぼやけていく。白い手が、彼女を撫で回してまさぐっていくうちに。
もがくのに疲れて頬を床につけてぐったりとする。と、視界に可愛らしいパンプスが目に入った。エナメルに、リボンをあしらったデザイン。続いて、フレアスカートのレースをあしらった裾が。
「あぁ……」
千夏を覗き込む彼女の顔は、悲しげに歪められていた。首を振っても空気が動く気配が全くしないのはさすが幽霊、というか。しきりに唇を動かして何かを訴えようとしているようだけど、今の千夏にはそれを読み取るだけの気力がない。それに多分、読み取ったところでどうしようもない。ただ、なるほど、と納得した。すっきりした、とさえ言っても良い。
(この人は……違ったんだ……)
生者のものではない虚ろな黒い目で千夏をあんなに怯えさせた彼女は、のりこさんと呼ばれる存在では、ない。この人の顔をアイコンにしたアカウントからメッセージも来たけど、それは、多分――
(あなたも乗っ取られたの……?)
もう声が出ないから目線で問いかけると、彼女は必死の表情で顔を上下させた。千夏に張り付いたままの白い手を剥がそうとする身振りをしているのを見て、本当は優しい人だったのかもなあ、なんて思う。思えば事務所ではこの人は千夏に背を向けていた――庇って、くれていたのだ。睨んだのも、敵意を示すというよりは佐竹に近づくなという警告だったのかも。
(あはは……分からないよ……)
だって幽霊なんて怖いもの。ましてあんなに沢山の画像に写り込んで、千夏に追い詰められているような気分にさせて。今だって、この人の姿に驚いて電話を取ってしまったのに。
苦笑で済ますことができるのは、もう何もかもがどうでも良いからだろう。死への恐怖も、のりこさんへの恐怖も。怖がるということそれ自体が、結構な気力と体力を必要としていたんだな、と。千夏はこんな時になって初めて知った。
(ああ、でも……嫌……!)
佐竹の嗤う声が、遠い。白い手が千夏の中を浚い尽くそうと指を這わせている。この感覚が終わるのはもはや救いにすらなるのかもしれないけど、奪われた千夏が何に使われるのかと思うと堪らなく厭だった。生きていたらきっと涙を流しているだろう彼女のように、佐竹のように。彼女の何かしらを、「のりこさん」に利用される――のっとられるのは。
霞む視界に見せつけるかのように、白い手がスマートフォンを千夏に突きつけてきた。そこに映るのは、ホームでも待ち受け画面でもない、とても見慣れたSNSの画面。それも、千夏のアカウントでログインした画面のものだ。ほんの少し前までは、一日に何度も喜んで覗いていたのが遠い昔のことのよう。
千夏の名前で、千夏のアカウントを使って、のりこさんは一体何をしようというんだろう。知りたい気もするけれど、知らないまま逝った方が良いのかもしれない。何であっても、きっと怖くて嫌なことには違いないんだから。
(うん……知りたくない……)
安心するような。でも、この後のことが気になっても少しだけやもやするような。相反する思いを抱えながら、千夏はそっと目を閉じた。