115話・瑠奈side
「······まだ。お兄ちゃんの防衛規制の事、聞いてない」
遠回しではあるが、泪は泪自身の防衛規制の事を、全く話題に出してくれていない。先ほどからジョーカーゲームや連続殺人事件の話を中心にされている。上手い具合に泪自身の防衛規制がどうなったのかを、泪によってはぐらかされているのだ。
「僕の防衛規制······。瑠奈が消したんだろ」
「! ···覚えてたの?」
まさか自分が、泪の深層心理の部分へ直に介入した事。泪は自身の能力を使った瑠奈の手によって、自分の防衛規制を消された事。その精神世界の状況を泪は全てを覚えていたとは。
「これも人工異能力者計画の時に、受けた実験の一つだ。自分自身で精神世界を干渉し、記憶や人格を操作する実験だった。この研究は研究所の職員だけでなく、それ以上に僕個人にとっては、願っても見ない成果を与えてくれたよ。当然精神干渉能力者ではないから、干渉自体に制限こそ掛かるが自分の手で記憶や人格を、自分の思うままに操作出来るんだからな。
実際、精神干渉能力を持った誰かが、僕の精神世界に介入して、何らかの方法を使って、防衛規制を排除される事は想定はしていた。例え防衛規制を排除されても、僕自身が精神を元の状態へ、復元すれば良いだけだった。だけど···瑠奈が直接防衛規制の排除を実行するとは、思っていなかった。
防衛規制に直接手を出す事は、本来は眠っている潜在意識に傷を付ける事と同じだ。僕は普段から、『周囲の人間に都合の良い泪』演じていた防衛規制に、深層心理の領域へ安易に他者が介入出来ないように、様々な権限を与えた。表層意識内では、常に『都合の良い赤石泪』となって、普段は温厚な人格を演じ続ける事。次にいつどんな状況の中でも、周りから離れられるように、常に他者を優先して他者を欺き続ける事。
···そして最後に。瑠奈だけには、どれだけ突き放しても心理的な致命傷を絶対に与えない事。
更に瑠奈の代わりとして、防衛規制の排除を躊躇いなく実行出来る者を想定し、深層心理の中の僕は、防衛規制と共に自分の精神世界の中で、様々な折り合いを付けていった。自身の精神構造を簡潔かつ複雑に構築し、実験の度に精神世界へ介入する、宇都宮一族や政府研究者の目を盗みながら数年を掛け、自分にとって徹底的に都合の良い、精神世界を構成していった」
目的を達成するべく泪にとって、あくまで泪自身に都合の良い、精神世界を作ったと自虐的に語る。泪の深層心理下の中では、泪自身の防衛規制の排除は、瑠奈本人ではなく瑠奈の周りに関わる、他の者がやるとばかり思っていたらしい。
「防衛機制を排除する相手は、私じゃなかったって事? だけど私は、お兄ちゃんの防衛規制を排除した···」
瑠奈本人が泪が傷つく事を恐れ、泪の防衛規制を排除出来ないなら、瑠奈の代わりに防衛規制の排除を、瑠奈の代わりに役目を引き受ける、可能性が高いのはルシオラか鋼太朗。そして数年前に研究所を脱出し、さ迷っていた泪を救った和真当たりだ。
「瑠奈は僕を、傷つけないとばかり思い込んでた······。せめて精神世界の者達には、徹底的に僕を傷付けさせるよう実行した。それでも瑠奈があそこまで、僕の精神世界へと積極的に介入して、潜り込んで来るのは予想外だった。最後は······最後は······っ」
防衛規制の完全排除には、結果的には失敗に終わってしまったが、瑠奈が一時的に防衛規制を排除した事で、泪の心境に何らかの変化が起きている事は、まず間違いなかった。
「瑠奈が防衛規制を壊したから、どうしていいのかわからなくなった······。瑠奈が【本当の僕】を傷つけたのは、今も深層下で傷跡として残っている。だけど···瑠奈を······っ。僕自身を、奥底で傷付けた瑠奈を、僕は···完全に、憎む事が···憎む事が出来なかった······なか、っ、た······っ」
瑠奈が泪を傷付けた事も、しっかりと覚えている。防衛規制を消した事で、瑠奈が傷を付けたと言う記憶は、泪の中で相当深く刻みこまれている。瑠奈が泪を傷付けた事は、泪の心の奥底に刻みこまれ、傷として一生残ってしまう。瑠奈のエゴでも構わなかった。泪の中に残り続ける傷を付けてでも、瑠奈は泪を救いたかった。泪の本当の笑顔が見たかった。
気付いた時には、無意識に瑠奈は両腕で泪を抱き締めていた。
「···お兄ちゃん」
瑠奈自身もまだ、頭の整理が追い付いていないのか不器用な抱擁。今の瑠奈にはこうする事しか出来ない。結局、泪の価値観を完全に壊す事は叶わなかった。泪の心は既に取り返しの付かない所まで、傷付いてしまっているのだ。だけど、泪は少しずつ何かを取り戻しつつある。
「瑠、奈······っ」
「······私にはこうする事しか出来ない。私はお兄ちゃんが知らない事は何も知らない。私はお兄ちゃんにとって、いつも蚊帳の外に置かれてるから」
『自分はいつも蚊帳の外』と言う言葉の意味は、瑠奈自身にも分からない。だが瑠奈の腕の中で抱き締めている泪は今泣いている。抱き締めている泪の両目からは、留まることなく涙が流れ落ちていく。
「···―······して。ど···う、して······。······筈···なのに······」
「泣いていいよ。お兄ちゃんが泣きたい時は、私が傍にいる」
泪はこれまで『泣いた事』がなかったのだ。どんなに辛い時も、苦しい時も、悲しい時も。泪は一人で耐えていた。誰一人助けてくれない世界の中で、泪は生まれた時から一人で耐え続けていた。
「能力を持ってる今だからわかる。私は小さい時から家族と一緒に引っ越しばかりで、同じ町に長く居た事がなかった。一人っ子だったから、新しい町でなかなか上手く友達が作れなくて、寂しい時だってあった。きょうだいのいる友達が羨ましかった。だからあの時、泪さんが『お兄ちゃん』って、応えてくれた事が凄く嬉しかった」
「······っ」
「数ヶ月前に再会した時も、またお兄ちゃんに会えて嬉しかったんだ。私が昔言ってた事、覚えてくれてたことも全部。初めて一緒に帰った時も、色々話してくれた事だって嬉しかった」
今、口に出しているのは嘘でも偽りでもない。瑠奈の本当の気持ちだ。『お兄ちゃん』が欲しいと言ったのは、反応を示さない泪と話をする内に、自分の場当たりな思いつきだけで出した言葉だ。それでも瑠奈の何気ない言葉に答え、返してくれた泪に会えて嬉しかった。
「く······っ······うっ···う、ぅ······つっ······っく」
泪は瑠奈の腕に抱き締められたまま、声を押し殺して鳴いている。泪の心の傷は、完全に癒された訳ではない。この世界に生まれてから、泪はあまりにも傷つきすぎたのだ。
「お兄ちゃん···私の言うことは聞かないって言った。少しでもいい、私はお兄ちゃんの事が知りたい」
泪が精神世界の中で告げた、瑠奈の言うことは聞かない。泪が今も抱えている深すぎる闇。
「······僕は罪人だ。さっきも話したけど、僕は僕自身の目的だけに、異能力間の争いとは無関係の人間を沢山殺した。瑠奈と···みんなとは、二度と一緒に居られない。もし、世界中で異能力者の受け入れが叶ったとしても、僕はいずれ法で裁かれる。誰がどう足掻いても、僕の犯した罪があまりに重すぎて死罪は免れない」
「······」
ジョーカーゲームで、裏社会とは何の縁もない人間を殺し過ぎた。ジョーカーの内容やゲームを裏から操っている、運営の存在が社会に表沙汰になれば、当然過去に参加していた泪の行為も浮き彫りになる。
「···今まで生きていて、ずっと苦しかったのは本当。生きてるだけの地獄を受け続けて、こんな苦しい思いをするくらいなら、どんな手を使ってでも死にたかったのも本当。地べたを這いながら生きてるだけの地獄を足掻いて、死ぬ前に【絶対に叶えたい願い】を持って生きていた。『それだけ』を叶える為には、どんなに自分の手を汚しても構わなかった。最後に、一度だけ······。ほんの一度だけでも構わない。瑠奈に······瑠奈に会いたかった。
【僕を人間として見てくれた】ただ一人の女の子に会いたかった·······」
「お兄ちゃん······」
泪の心の奥底に秘められていた本当の願い。周りの人間からしてみれば、些細な願いなのかもしれない。泪にとっては誰にも知られず、奥底に閉じ込め続けた願いだけを、糧にしてずっと生きてきた。瑠奈に会う為だけに罪を犯しすぎた泪。だから瑠奈と一緒にいる事は、決して叶うことはない。
「だから···。異能力も裏の世界も関係なく、瑠奈には【人間】として生きてほしい」
泪の消えるような呟きの直後、部屋の外から複数の足音が聞こえてくる。勢いよく扉を開け、飛び込むように部屋へと入って来た人の姿を見た、瑠奈と泪は慌てて離れ距離を取る。
「あなた達···」
乗り込んできた来訪者を見て、泪は怪訝そうに目を丸くする。ノックもせず部屋へ飛び込んできたのは、両膝に手を当て息を調えているクリストフだった。クリストフのすぐ後ろには、一緒に走ってきたのかルシオラの姿もあった。
「は、話し中の所邪魔してごめんっ。異能力者狩りの連中がまた攻め込んで来た!」
「!?」




