79話・翠恋side
―午後二時・神在市内某所三間坂宅。
買い物を終えて駅前で友達と別れた翠恋が、一人自宅へ帰ると、家の前のすぐ近くの道隅に黒い乗用車が停まっているのが見えた。
「珍しいわね。こんな所に車止めるなんて···」
翠恋の目から見ても高いと分かる高級車だ。翠恋の自宅があるこの閑静な住宅街に、あのような高級車が止まる事など滅多にない。それ以前にこの住宅街周辺は駐車禁止であり、長い間停めていたら間違いなくパトカーを呼ばれるだろう。翠恋は怪訝な表情をしながら、止まっている高級車を眺めていると、車から一人の男性が扉を開けて降りてきた。
そして翠恋の顔を見るなり、どこか得体の知れない雰囲気を纏わせながら、翠恋に近付き所で彼女に声を掛ける。
「初めまして。三間坂翠恋さん」
人が良いが、どこか信用出来ない胡散臭そうな笑みで翠恋に挨拶する黒髪の男の顔は、テレビやネットでも何度か見たことがある。男はたしか、政府議員の秘書を担当している玖苑充だった筈。多彩な話術で周りを掌握する達人で有名な男だ。このような何もない住宅街に、そんな事よりも一般人である自分に何の用だろうか。
「く、玖苑充。さん? 確か、テレビのワイドショーとかによく出てる人···ですよね?
その有名な議員秘書さんがあ、あたしに何の用···ですか?」
「いやいや、これは失礼しました。特に大した用事ではないのですが···。かの有名な宝條学園の生徒でもあるあなたに、一つだけお話があって来たのです」
男のまるで底の見えない笑みに対し、普段は思った事を顔に出し気味の翠恋もなんとも言えない、引き吊ったような表情になってしまい相手への警戒を隠しきれない。
一年の問題児・千本妓寧々の学園内での大騒動の後、突如泪が学園に来なくなった。そして彼の後を追うようにしてか、瑠奈も昨日から連絡を絶ったばかりなのだ。
「あなたは宝條学園で、真宮瑠奈と言うお嬢さんが通っているのをご存じですか?」
どうやら男は瑠奈を探しているらしい。生憎今日も瑠奈は学校でも姿を見なかったし、彼女と仲が良い琳や芽衣子ともあまり話さないから、瑠奈がどこに居るのかも翠恋は知らない。同じクラスの勇羅に聞いても答えてくれないのは明白だし、泪の情報も兼ねて休み時間中に保健室の茉莉に聞いてみた。
普段から自分の従妹が翠恋と仲が悪いのを分かっているのか、瑠奈の事を聞くと珍しそうな顔をされたが、茉莉は苦笑しながらも質問に答えてくれた。茉莉の話によると、瑠奈は昨日ペットの散歩へ自宅を出たまま帰って来ておらず、ペットの散歩なのですぐ帰って来る予定だったのか、携帯の方も自宅に置きっぱなしだった為、今も連絡が付かない状態らしい。
「真宮瑠奈さんの事なら···し、知ってるけど。あ、あいつの···。か、彼女の事を知って秘書さんに良いことないと、思うんだけど···」
長身の男の薄気味悪い笑みの中に見せる、異常な威圧感に反応しているのか、翠恋は無意識に声が震えてしまっていた。こいつには誰にも何も情報を教えてはいけないと、翠恋は本能的に感じ取っていた。
「そうかもしれませんね。ですがその真宮瑠奈さんが、赤石泪君の過去に因縁のある人間だとしたら」
「!?」
聞いた事がない。あの真宮瑠奈が泪の過去と関わっている。泪は一度も瑠奈と過去に関係があると言わなかったし、瑠奈も泪を特定の状況下で『お兄ちゃん』と呼んでいる以外では、そんな素振りを全く見せなかった。
「私は嘘は申しあげませんよ。何せ彼女は赤石泪君を、心身共に追い詰めた張本人なのですから」
「え······っ?」
どういう事だ? 瑠奈が泪を追い詰めた?
確かに最近の二人のお互いに対する接し方には、翠恋自身もなんとなく疑問に思ってはいたが、どちらも余程の原因がない限り一方を追い詰めるとは思えないし、目の前で瑠奈が泪を追い詰めたと話している男と、現在の二人の関係とまるで辻褄が合わない。
「これはご本人も全て黙秘しているのは当たり前でしょう。泪君は過去、暁村に存在する私立暁学園に通っていました。
しかしその学園で···。彼は学園ぐるみでの凄惨ないじめを受けたのです。そのいじめは学園側からも全ての事実を隠蔽してまで、徹底的に続けられました。そのいじめの首謀者こそが、何を隠そう宝條学園の真宮瑠奈なのです。
彼女を主犯に行われた暁学園での、度重なる悪質ないじめによる肉体的精神的ショックで、彼は過去の記憶を失い己の素性を知らされぬまま、学園内の人間総出でいじめを受けたと言う事実すらも隠蔽され、この神在市へご親族を含め誰からの支援も受けられず、ただ一人無理矢理この都市へ送られたのです。
神在へ引っ越した真宮瑠奈もまた、現在の彼がおかしくなった原因すら欠片も知らぬまま、今も周りの人間と友人ごっこを続け、全ての人間を欺きながらのうのうと日々を暮らしているのです」
泪の様子が時々おかしくなる時があった。一瞬ではあるが普段の泪から考えられない異常なまでの無表情になる。
「ま、真宮が······。あいつが······泪を······」
小生意気で小さく胸やたらでかい癖に、いつも行動的で道理のなっていない事に対しては、常に真っ正面から向かっていく筋の通った瑠奈。その真宮瑠奈が自分達の前では本性を隠して、実際は泪を記憶喪失に追いやったのか。
「えぇ、そうです。彼女が赤石君に行ったいじめ行為は、それは酷いものでした。泪君に対して殴る蹴るの暴力行為は当たり前、酷いものだと無理矢理汚物を食わせたり、傷口にアルコールを擦り付けるものもありました。私は彼が彼女に虐めを受けた一連の映像を観させて頂きましたが、それは見るに堪えかねませんでした」
瑠奈は泪を裏切った。泪の記憶を、泪の意思を、泪の全てを蹂躙し泪の心に一生残る事のない傷を付けた忌々しい女。真宮瑠奈は初めから泪の事を嘲笑い、泪を否定し泪を気持ちすらも裏切っていたのだ。
「愚かな娘だと思いませんか? 記憶のない泪君を騙し、今もまた家族を始め、貴方や周りの人間すらをも嘲笑っているのですから」
真宮瑠奈を愚かだと充は告げる。泪を追い詰めた彼女はもしかすると、家族や周りの信頼をも裏切っているに違いない。だとしたら彼女の従姉妹でもある茉莉や琳。友人の芽衣子達が余りに不憫だ。
「真宮·········。あいつ······あいつ······許せない···っ!」
明るく元気な真宮瑠奈であると見せかけて、その実の裏では家族や友人達をも、あの女は全てを見下しながら軽蔑し嘲笑っていたに違いない。
「私に協力して頂けますか? 三間坂翠恋さん」
長い沈黙の末、翠恋は首を縦に振り充の前へと足を進めた。




