事件記録:―敗北―
そしてフィールとジュリアの戦いの結末とは――
地上から約250m。有明1000mビルの第4ブロックの最上階層には、ビルの内周を一周する展望回廊がある。そこからは、世界に冠たる巨大都市東京の姿が一望できる。
6角形状のその回廊に、唯一の人影がある。すでに人の無い閑散としたその回廊において対峙する二つの影があった。
彼らは互いを見つめあっている。一方は怒りに満ちた攻撃の目で。もう一方は獲物を追う猛禽鳥の持つ狩人の目である。二人の間には、50mほどの距離とその間で床に倒れて苦悶する女の姿がある。倒れているその女には片腕が無い。右肩の先から電磁火花を散らし床に倒れ伏している。
しかしながら、その身を転がす様に動かしてその場から離れようとしている。その女にほど近い側に、大きい体躯の威丈夫の傑女が立っている。漆黒のボディスーツに身を包み金色の短髪にロシア系の容貌を有した女がいる。ジュリアである。
その目はまさしく猛禽のそれであり、明らかに人のそれではない。その彼女の周囲には多数の死骸が散逸している。人ならざる者の力によってその死骸は砕け散っていた。周囲には濃朱の色に染まった巨大な血瘢が飛散している。ダークブルーの合成樹脂のフロアーの上には惨劇の証拠が刻み込まれていた。だが、その惨劇は終幕を迎えてはいない。むしろ、これからが本番なのだ。
ジュリアは歩みを進める。止まる気配は無い。
その女の対極には、一人の男性型のアンドロイドが立ちはだかっている。フルメタルのボディに特殊樹脂性のハーフスリーブのジャケットをはおった警察アンドロイド。特攻装警第4号機・ディアリオである。
その手には357口径オートマチック銃が握られ鈍い光を放っている。クーナン357マグナム オートマチック――、リボルバー用のマグナム弾を用いるコルトガバメントベースのカスタム銃だ。
マニアックな選択だがディアリオは案外気に入っていた。
残る反対の手には、全長1mに及ぼうかと思われるような特殊電磁警棒が握られていた。遠距離と近距離を想定した武装選択である。それらを手にしたまま、ディアリオは相手を凝視している。冷静さの中に怒りを垣間見せていた。
そして、ディアリオは引き金を引いたとき、相対するジュリアが雷迅の様にその身を弾き出した。
ディアリオの全肉体に、高圧電磁パルスの制御指令が落雷の衝撃のように駆け巡った。そして機械の脚で高速で間合いを取りながら威嚇攻撃の弾丸を打ち放つ。357口径の弾丸は射速と貫通力に重点を置いた高速徹甲弾で、アンドロイドだけがもつ超高速の世界の中で加速を続けた。
今、ディアリオは尋常ならぬ破壊の威力を露わにした奇怪な相手に、体内の作動演算速度を加速させて反応速度を一気に引き上げた。通常の反応速度から…2倍…3倍…4倍…
ディアリオは体内の全メカニズムを駆使して、己れの持つ反応速度を限界まで上げて行く。
だが――
「速い!」
ディアリオが思わず口走る。ジュリアの動きには〝限界〟が全く感じられない。幾重にも弾丸を放ったが、眼前のジュリアはそれを全く気にせず紙一重で見切っていた。それを目の当たりにしてなお、ディアリオはまだ余裕を完全には失っていなかった。
展望回廊の中は極めて広い。幅は優に10m余りはある。その回廊の中をジュリアのすきを伺うようにカーブを描く様に疾走する。不安がないわけではない、相対するジュリアからは痛烈な攻撃の意思と見下しの感情を感じとっていた。
否定は出来ない。ディアリオは、自らが特殊機能主体のメカニクス系のアンドロイドである事を自覚している。だからこそ正面からの肉弾戦の不利を認めざるをえないのだ。
だが、それでもなお彼には他のアンドロイドには無い絶対的な切り札が在った。体内に内蔵された5機の高性能プロセッサー――、その強力無比な情報処理機能がディアリオに反撃のためのチャンスをもたらすのだ。
ディアリオはその身を反転させて、擦れ違いに攻撃を仕掛けようと試みる。いずれにせよディアリオがジュリアを正面から捕らえる事は無理だ。二人の軌道が交差し接触しようとした刹那、重く激しい激突音が静寂の回廊の闇の中に鳴り響いた。
電磁警棒を順手から逆手へと上下を逆に握りなおす。そして、全身を一気にきりもみさせ全身を回転を与える。逆手に握られた電磁警棒はディアリオの腕力と回転力を加算させてジュリアの首筋を背後から襲う。その反応速度はジュリアの直線の移動速度より上でありディアリオはジュリアへの攻撃脳成功を確信していたのだ。だが――
「な…?!」
驚愕したのはディアリオである。ジュリアはこれを難無く回避する。彼女の身に染み付いていた戦闘経験が、彼女の身体を無意識の内にコントロールしたのだ。ジュリアは上体を大きく下げ、両手を突き出しフロアに突く。そして走行の勢いを殺さず上下をそのまま反転させて下半身を持ち上げた。
逆立ちになったジュリアに、ディアリオの電磁警棒は宙を切る。
と、同時にジュリアの攻撃がディアリオを襲う。開脚しての廻し蹴りである。ディアリオは5mほど飛ばされて床に這いつくばる。声もなく横たわり、その手に握っていたはずの電磁警棒も遥か彼方に転がっていく。
黒いタイツに包まれていた脚を閉じると、つま先を揃えてバレーダンサーよろしく優美にその上体を起こす。そして、ディアリオを一蔑すると、ジュリアは明朗かつシンプルに告げた。
「弱い」
ジュリアはそれっきり、ディアリオを見なかった。見限ったのだ。そしてすぐさま、ジュリアの目は次の目標へと向かっていた。片腕をもがれたフィールである。
そのころフィールは、確実に正気を取り戻していた。片腕をもがれたショックで意識が飛び、一時的に恐慌状態に陥っていたのが収ったのだ。彼女は失った片腕を探しており、その肩口からは電磁火花がしきりに飛び散っていた。フィールは気付いていた。現在の自分の状態では何の対策を建てる手立てもない事を。そして、このままでは彼女自身があぶない事を。
フィールは現状からの退避を急いだ。この事実を他の者に知らせる必要がある。咄嗟の判断で自らの片腕を見捨てると、この場から駆け出そうとする。だがジュリアには駆け出したフィールの姿がしっかりと見えている。その視線に気づいて振り向けば、ジュリアとフィール、その互いの視線は真っ向からぶつかり合う。
ジュリアの視界の死角でフィールの後頭部の外殻シェルが静かに開いた。そこから一振りのファインセラミック製のスローイングナイフが現れる。それは逃避から反撃へとフィールの意思が反転した事の現れに他ならなかった。
ジュリアは言葉を持たぬままにフィールに迫ってくる。
フィールが腰を屈めれば。ジュリアは無表情のままフィールを見降ろしている。その時のジュリアの視界でフィールが力強く微笑んでいた。ジュリアはフィールのその笑みを解しかねている。
その時、ナイフはフィールの背後を滑り降りていく。そして残る左手を僅かに背後に廻しナイフを受け取るる。降りてきたナイフは三振り、片手の中に収めるにはちょうどよい数である。
フィールの左手が振り回される鞭の様に下手投げに動いた。ナイフは不意打ちにジュリアの顔面を襲い、そのナイフを追うようにフィールも動く。フィールは屈めていた両脚に満身の力を込め飛び上がる。再び、フィールの後頭部が開き新たなナイフが降りてくる。
フィールが次のナイフを確保する一方で、ジュリアはとっさに後方にその身を反らす。
ディアリオの攻撃をかわしたあの時と正反対の動作である。ジュリアの身体が大きくのけ反る。ナイフは何なく宙を切る。
飛んだフィールが空中で次弾のナイフを受け取ろうとしたその時だ。のけぞったジュリアはそのまま大きく身体を海老反りに丸め両手をフロアに突く。ジュリアの右のつま先が跳ね上がる。空気を切る軽い擦過音が鳴り、黒いヒールの切っ先が弾き出された。その先には空中に留まっているフィールが居る。
ジュリアの特異な動作を理解できぬまま、フィールはその左手に次なるナイフを握ろうとする。だが、一手順早かったのはジュリアである。
ジュリアの足先は頑強なフレイルである。鉛の詰った鞭である。ジュリアの右の足のつま先は鋭利な凶器となってフィールの下腹部に襲いかかった。その衝撃がフィールの体内を貫いて誤動作を引き起こしフィールの動きを一瞬停止させたのだ。そしてさらに、ジュリアの足先は止まること無くフィールを襲う。
ジュリアは両足を開脚させT字のシルエットを描くと、床に突いたままの両腕に力を込めて自らの身体に回転力を与えた。そして、その体躯をさらに旋回させ勢いを増す。残る左足は凶悪なウィップとなり、そのつま先の射程距離にフィールの頭部を確実に捕らえた。
一時的にしろ一切の回避行動を封じられたのは致命的である。人型アーキテクチャにとって最大の急所たる首とその喉元を無防備に晒したフィールは、ジュリアにとって格好の処刑の対象と化していた。
振りぬかれる左足のつま先を、フィールの喉元めがけて打ち込んでいく。その左足は威力と速度を増し、無慈悲に凶悪なまでにフィールのそのしなやかな首筋を襲う。打撃は一回ではない。旋回する両足のつま先は為す術無く空中を漂うフィールの頸部や頭部を数度に渡り撃ちぬくのだ。
今、まさにフィールのあまりにも軽い身体は木端の様に虚空を飛んだ。長い放物線を描いてプラスティック製のフロアの上を転げまわり、意図の切れた球体人形のように力なく横たわったのである。
ジュリアは両脚を降ろすと、その漆黒の体躯を音もなく起き上がらせる。まるで一匹の黒豹が身を起こすかのように――、
ジュリアは何もなかったかのようにそれまでの数刻の間の惨劇が嘘であるかのように、速やかに立ち上がる。そのシルエットはステージを歩くファッションモデルの様に優雅である。
今、彼女の眼下には肉体の要所を砕かれて横たわる一体のアンドロイドが居る。フィールはもはや行動不能である。指一本動かせぬ状態のまま必死に周囲の状況を把握しようとしている。視線の先にジュリアのつま先が見える。その視線をつま先から先を見上げるように動かせば、そこにジュリアの恐るべき姿がはっきりと見えていた。
「ヨコハマでは世話になった」
ジュリアがフィールを見つめていた。冷酷で感情の見えぬ瞳の中に微かな怒りの色が垣間見えていた。それは明確な敵意だ。フィールもその敵意がもはや避けられぬ物であると悟らざるを得なかった。
その怒りに彼女はどう答えるだろうか?
侮蔑とともに無視するのなら、むしろその方が良かっただろう。
だが、ジュリアはそうはしなかった。なぜなら――
ジュリアはテロリストであるからだ。
ジュリアは右手一つでフィールの肩を掴むと高く持ち上げる。ジュリアの視線が僅かに横に流れた。その先にはビルの巨大ガラス壁面がある。ジュリアは視線をフィールの方へと戻す。
そのジュリアの酷薄な視線と、苦痛と恐怖に怯えたフィールの視線が向かい合った。
そのフィールの姿を認めたままジュリアは告げた。
「死ね」
ジュリアの呟きとともに、彼女の右半身が大きくうねった。
フィールの身体は弓なりの投げ釣り竿の様に反りかえり宙を舞う。そしてその先は有明1000mビルの強化ガラス壁面である。数mの距離を飛びフィールの身体がガラスの表面に強打される。
壁面の強化ガラスが割れ、幾千数多のガラス破片が有明の空中に四散する。ガラス壁面には巨大な穴が空き、そこからフィールの身体は宙を泳いでいた。