冬の終わり
この物語は自分が中学の頃に初めて書いた小説をリメイクしたものです。
書き上げることを諦めていましたが、完結させてみようと思います。(笑)
ぜひ、お付き合いください。
もう春を身近に感じてもいい頃だというのに湿った空気が頬ずりをする。雨の匂いは重く鼻腔に纏わりつき、そして思い出させる。足元で水溜りを作り出すように何処となく流れ出す赤黒い、それを。それは最初こそ知っていた真紅の色をしていたが、時間が経つにつれて匂いを放ち黒ずんでいった。
仲良く囲んでいた食卓で、母は言った。
「今日のお肉は特別にエセリさんが少し大きく切ってくれたのよ。」
肉屋のエセルさんとの付き合いは長かったように思う。確か、彼女とは10年来の中だと、市場から戻る道で僕の手を引きながら言っていた気がする。そして、母はまるでそれが誇らしいように言って見せた後、だって今日はあなたの誕生日ですものね、と笑った。その母が足元で静かに、足先を赤く染め上げていく物体となるのをあの時はただ静かに眺めていた。これが母の最期の日の記憶であり、僕が一度死んだ日の記憶だ。
父が何かを言い残して死んだ記憶は悲しいがなかった。何があった訳ではないが、父との思い出はあまりなく、会話をした覚えも殆ど無かった。無口な父が一度、他者の感じる痛みは決して同じではない、という事について酔っ払った勢いで語っていた気がする。そう言い終えると、手に持った安い酒をうまそうに飲み干していた。当時の僕はそんな父の横顔に酷く哀愁を漂っていたのだけは、幼心に感じ取っていた。言葉の意味をきちんと理解できるだけの年齢を重ねてはいなかったが。きっと今なら解るのかもしれない、いや、どうだろうな。
どちらにしても、僕の実の親ではない。子宝に恵まれなかった二人が老後の為にと引き取ったのが僕で、金のない男女が養子代わりに奴隷を連れてきたのだろう。愛されていたのかは今となっては確かめようがないが、奴隷にしては恵まれていたはずだ。
だが、二人の顔はもう思い出せない。
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「死にてぇのか、クズがっ!!!」
日中の日差しで少しは心地よさを感じるようになった空の下で、晴れ晴れする天気には似つかわしくない、耳障りな嗄れた声で僕を怒鳴るのは雇い主という名のご主人様だった。日が傾きだす前から酒に酔い痴れるこの男の、唯一の活動時間である午前中は、僕をこき使い果たす時間になっていた。そして、奴隷に向ける優しさなどはないというように、僕は容赦なく働かされた。だが、それがある意味心地いいとさえ思う。慈悲や同情なんてものが腹をいくらも満たさないことぐらいを知っているからだ。買われた僕はあくまで労働者であり、飼い主様の犬でしかない。いや、ここの犬のほうがご主人様の酒のアテの残りである、少し贅沢なおこぼれにあり付いている分、僕より待遇が良いかもしれないな。
「この屋敷はまだ優良物件だぜ?」
と、僕をガスの臭いが充満した廃車寸前のバンでここに送り届けてくれた男性、違うな。売捌きやがった下衆野郎が言っていた。奴の好物が水に漬けなければ硬くて食べられないカビの生えかかったパンなのなら、こんなに恵まれた労働環境はないだろうが。
前にいた施設を自ら出て行った僕に残された道など一つしかなく、腹を空かせ危うく凍え死にそうになっていたところに慈悲や同情などを掛けてきたのが、その下衆野郎だった。僕の体力の回復を待って、連れて行ったのが所謂「ヤギ市」だった。そして、今の奴隷生活が彼のご好意で実現された。
「クオン、こっちおいで〜。」
僕の名前を甘ったれた声で呼ぶのは、ご主人様の奥様で、よく僕に腹の膨れない慈悲を無邪気に与えては悦んでいる。その対価を求めるように、夜になれば部屋に呼び、重さに耐え切れなくなった不揃いな乳房を擦りつけては、ヤニで黄ばんだ瞳を不自然に潤わせながら見つめてくる。あくまでご主人様の犬である僕は、それがあたかもご褒美だと言わんように振舞わなければならない。好きな相手とそこら中で交尾する犬のほうがやっぱり優れた待遇を受けているな、と毎度奥様の部屋から自室へ帰るときに、草むらで舌を出しながら寝転がる犬を見て毒づいた。
「はい。」
返事をして、奥様の元に向かう。嬉しそうに僕の顔を見た後、一緒に市場へ買い物に出かけると告げると隣で歩く自分の所持品を少しでも着飾ろうと思ったのか、新品の衣類を渡してきて得意げに言い放った。
「早く着替えてきなさい。門の前で待っているわ。」
着替えを済まし門とは名ばかりの玄関口へと急ぐと、ご主人様とその奥様が何やら言い争っていた。それも其の筈だ、今の地域で新品の衣類なんかを奴隷に着せるのは気の狂った成金夫婦か、奥様ぐらいだろうからな。
「俺の女房に手出したら、ぶち殺すぞ!」
「はい。」
また耳障りな嗄れた声で僕を叱咤したご主人様に、見下ろす形で返事をしたせいで、手に持っていた犬を躾ける棒切れで打たれた。仕方なく、決まりに沿って整備などされていない大小様々な石ころが転がる地面に、膝をつけて見上げ、返事をし直す。
「はい、ご主人様。」
折角の服を汚され不満そうな奥様は、市場へ歩き始めた時に意味ありげな手付きで僕の金色の髪を梳いた。帰ったら、またご主人様に打たれるな、などとそんなことを、背後で聞こえるあの嗄れ声を聞こえてない振りをしながら僕は思っていた。
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市場は歩いて行けるほど近い場所にある。とは言いつつ30分以上は歩くので奥様は疲れ果てていた。どこかに座りたいと言い出した奥様を、大きな樹の下の瓦礫の上に座らせる。ここら一帯の人々の生活を担う市場だが、それはまるでガラクタをかき集めたような外見で全くもって整っているとは言えなかった。しかし確かに、商売が商われていて人間の活力で漲っていた。
「奥様はここに居てください。僕が買い出しを済ませてきます。」
いつもなら奴隷に金を渡すなんて有り得ないにも関わらず、余程疲れているのか、それとも僕を信頼しているのか、金の入った袋を渡してきた。少し驚いたが、ここでこの金を持って逃げる程僕は愚かじゃない。手持ち銀貨6枚で逃げ切れるほどこの世界の現状は甘くない。言われた通り買い物を済ませた僕は、最後に奥様に頼まれた飲み水を買いに行く。
「水をくださ・・」
店番にそう言いかけた時、既に奴は後ろに居た。両親の首を掻っ切ったのと同じように僕の息の根を止めることも出来たんだろう。誰にも悟られずに大勢いる市場の路地へ引きずり込み、残り少ない金を毟り取ることも可能だったはずだ。だが、奴はそうはしなかった。僕の首に架けられた奴隷の徴である首輪を、艶めかしい指使いで撫でた後、囁いた・・・
「久しぶりだな?」
耳元を掠めたのは嘲笑を含む声音で、聞き慣れた嗄れたあの声でも甘ったれた女を連想させるあの声でもなかった。死神の声だ。僕はそう思った。そして、それには気づけばこの声に操られ魂さえも連れ去ってしまう思ってしまうような怖さがあった。それでいて魅力的だった。脳が質問に対する答えを用意する事を拒否する。どこか懐かしさを感じさせるその声に酔いしれている間に、奴は、僕の意識を奪い去っていた。
あの雨の日から11度目の冬が終わろうとしていた