夏みかん
実家の庭先に敷かれた砂利道を歩いていると、玄関扉が開いて大きなトートバッグを持った母と行き合った。
母は俺の顔を見ても、特別驚いたような素振りも見せなかった。ただ、無言で閉めかけた玄関扉を開けてくれた。
俺は俯きがちに母の前を通って、たたきの上にボストンバッグを置いた。
「コウイチも、散歩に行く?」
少し固い声で、母が言った。俺は内心驚きながら、実はホッとしていた。
俺が外に出てくるのを見て、母は手にしていた玄関扉の鍵を差し出した。どうやら、俺が鍵を掛けなければならないらしい。
何処に行くかは、何となく察していた。
母は案の定、裏山に向かった。そこには夏みかんが鈴なりになっている木々が、青い葉を生い茂らせていた。
お盆休みになると、祖父の墓前に上げるため、母は決まってここの夏みかんを採りに来るのだ。
向日葵の花のように黄色く色づいた夏みかん。母は無言のまま、次つぎと、まあるくて形の良いものを選んでもぎ取っていく。
大きなトートバッグを夏みかんでいっぱいにすると、母は不意に俺の方を振り返った。
「コウイチ、コウイチの名前はさ、じぃちゃんが付けてくれたんだよ。一等幸せになれますようにって」
俺は深く俯いて、これまでの人生を考えた。
大学は環境に馴染めなくて中退。就職にも失敗して、フリーターをしながら次の職探して、中途採用された先では自律神経失調症を患って休職願いを提出し、都会で一人暮らしが辛くなって親元に戻って来た俺。
「俺さ、全然上手くいかないんだ」
何が、とは言わなかった。なぜなら、俺にまつわる「全てが」だからだ。
母はしばらく沈黙したあと、木になる夏みかんを一つもぎ取った。それは、歪な形をしていて、表面の皮は虫に食われてザラザラとしていた。
母はその夏みかんをTシャツの裾で磨いた後、手のひらの上で転がして、俺の手に握らせた。
「幸一、そのみかんの見てくれはB級品以下だけどね、甘くて美味しいみかんだから、虫に食べられてしまったんだよ。それにね、この木に残された実は歪かもしれないけれど、ほかした実から芽が出るだろ? 次の命に繋がる、それはそれで一等幸せなことなんじゃないかい?」
「……うん……」
「ほら、いい香りだねぇ~。幸一も嗅いでごらん」
それは、甘酸っぱくて、懐かしくて、優しい香りがした。