第8講義
パルミラに礼儀作法や最近の貴族の勢力図、流行などを学んでいると、あっという間に夜会の日が来た。ちなみに、三日後には学会なので、エルザはかなり忙しかった。
「エルザ様、顔色悪いですよ」
エルザの身支度を手伝っていたアーシアがツッコミを入れた。自分でも顔色が優れない自覚のあるエルザは「コルセットの締めすぎだよ」とはぐらかそうとする。
「学会が近いのもわかりますけど、夜更かしはほどほどに」
「……わかったよ」
姉のようなアーシアにはお見通しだったらしい。エルザは肩をすくめた。もともと彼女はそれほど体力がある方ではないので、無理をし過ぎれば倒れてしまうだろうことは容易に想像できた。
「はい、終わりましたよ。一応、ハンドバッグに眼鏡を入れておきますね」
「はいはい。ありがとう」
エルザは適当に返事をして立ち上がった。お決まりの如く眼鏡を外され、さらに履きなれない華奢なハイヒールを履いているので少しよろめいた。
「気のせいかもしれないけど、ヒール高くないか?」
「大丈夫ですよ。イングラシア公爵、背が高いですから」
「いや、そうだけどそうじゃなくて」
確かにルカは背が高いので、比較的長身であるエルザが十センチのヒールを履いたところで彼の身長を越してしまうことはないだろう。
「歩けないなら、イングラシア公爵に助けてもらってください。そのドレスには一番その靴が合うんです」
「……わかったよ……」
エルザはアーシアに文句を言うのをあきらめ、ハンドバッグを受け取る。せめて玄関まで、とアーシアに手を引いてもらいながら歩く。エントランスに出ると、すでにルカが到着していた。いや、顔が見えなかったので、身長で判断したのだが。
「ああ、エルザ。きれいに仕上がったわね」
パルミラが楽しそうに言う。その隣でルカと話していたのが現ロンバルディーニ公爵ディーノだ。金髪にグレーの瞳の男性だが、エルザと姉テレーザの顔立ちは、どちらかというとこの父親に似ている。
エルザの手を引く役がアーシアからパルミラに変わった。さすがにここまで近づけば顔が判別できる。
「こんばんは、ルカ」
「こんばんは、エルザ」
さすがに慣れてきたのか、着飾ったエルザを見てもルカはさすがに動揺しなくなっていた。それがちょっとうれしいような、つまらないような。
「……エルザ、どうかしたか?」
「……目が見えないんだよ……」
ややよろめいているエルザを見てルカに言われたので、エルザは正直にそう返す。ルカが苦笑した。
「そんなにかかとの高い靴を履いていればな」
納得した様子のルカを、エルザは見上げる。そう。見上げる。やっぱりハイヒールを履いたエルザよりルカの方が背が高かった。
「ふふふふ。イングラシア公爵。エルザのこと、お願いしますね」
「はい。お嬢様をお預かりします」
ルカが貴族らしくそう答えるが、ルカに手を引かれて何とか彼の隣に立ったエルザは彼のわき腹をつつく。
「ちょっと。この年でそう言うこと言われるとさすがに恥ずかしいんだけど」
ほぼ自業自得とはいえ、二十八歳で『お嬢様』と呼ばれるのはかなり恥ずかしかった。ディーノが生暖かい目で二人を見ている。
「大丈夫だエルザ。私にとっては、いつまでもお前は可愛い娘だ」
「前から思ってたけど、父上ってちょっとずれてるよね」
エルザはよどみなくツッコミを入れた。こういう反応は即座に出来るエルザである。ディーノは自分のことを言われているのに、どこかぽかんとしている。
「……それでは、会場でお会いしましょう」
沈黙が漂ったところに、ルカがそう言って締めくくった。彼も居心地が悪かったのかもしれない。手を取られ、ルカにエスコートされて歩き出す。
「ちょ、ちょっと待って! 速い速い!」
履きなれないハイヒールの上に眼鏡をしていないのでどうにもバランスが悪い。ルカは身長に比例して足も長いので、足がもつれそうになった。
「ああ、すまん」
ルカが気づいて立ち止り、エルザの体を支えて立たせる。そして、今度はゆっくりと歩き出した。
「大丈夫か?」
「ああ……悪いね。慣れない格好の上に眼鏡がないしね……」
「いや……元はと言えば私が頼んだせいだしな……」
そんな会話をする二人を、エルザの両親は生暖かい目で見ていた。
△
エルザとルカの年齢を考えれば当然のことだが、二人は『恋人同士』というより『夫婦』に見えた。エルザがあまり社交界に出てこないこともあり、すわイングラシア公爵の愛人か!? などと言われた。失礼な話である。
失礼な話ではあるが、そのささやきはすぐに潰えた。エルザがロンバルディーニ公爵家の変人次女だとわかったのではなく、彼女の容姿が凛として理知的であったから、これは貴族だろう、ということになったのだ。こういうところでエルザは少し得をしているかもしれない。
社交界は、エルザの出る幕ではない。彼女が出るべきは学会だ。それでも、ルカが『これが自分の恋人です』と喧伝するために連れ歩いたのでエルザもかなりの人に挨拶をした。
中には知っている人もいた。学会に出てくるような人たちだ。そう言った人たちは、たいてい「結婚したの? おめでとう!」などと言ってきた。やはり夫婦に見えるらしい。
「恋人を通り越して夫婦に見えているらしいよ。ルカ的にはオーケーなの?」
冗談半分に聞いてみると、ルカは神妙な表情で言った。
「お前とならありだ」
「……お前それ、勘違いしそうなセリフだね」
エルザだからそれはないけど。と、自主的にツッコミを入れてこの話題は終わる。
「久々の社交界はどうだ?」
今度はルカが尋ねてきた。エルザは給仕から適当にグラスをとり、言った。
「三日後の学会が気になってそれどころじゃない」
「エルザなら完璧だろ?」
「ンなわけないじゃん……」
ルカの無駄な信頼に、エルザは少しうなだれながら言った。言葉にしたら余計に気になってきたのである。そんな様子を見ながらルカが言った。
「私としては、お前と一緒にいることでこんなに平和に過ごせるのかと感動しているんだが」
「そりゃよかったよ……」
多少でも役に立っているのならよかった。そう思うことにしよう。確かに、先ほどから年若いご令嬢や色気のあるお姉さま方がちらちらとルカを見ているが、隣にいるエルザを見て顔をしかめている。と言っても、エルザは眼鏡がないのでそれが見えていないのだが。なので彼女が視線なんて気にしない、と言っているようで、それが女性たちは面白くないのかもしれない。
「エルザ。一曲どうだ?」
ルカがエルザの手を取った。エルザは「えー」とやる気のない声を出す。
「ダンスなんてしばらくしてないよ。それに、慣れない靴だし目が見えないし、きっと足踏むしぶつかると思うよ」
「大丈夫だ。私がリードするから。足を踏まれた時は……その時はその時だろ」
ルカが意外と行き当たりばったりなことを言った。エルザが呆れた声を出す。
「何か踊ることに目的でもあるの?」
「いや、慣れないことをすればエルザも学会の言葉から考えずに済むかなと」
「うむ。ある意味余計にストレスになりそうだけど、私のことを考えてくれたようだからツッコミは入れないでおこう」
エルザは内心少し喜んでそう言ったが、続いた言葉が余計だった。
「ついでに親密さをアピールすれば私一人でも人が来ないかなと」
要するに虫よけである。さっきちょっと喜んだのを返せ。
「……まあいいわ。もう一回言うけど、ダンスなんて久々だし、足踏むかもしれないし目が見えてないからね」
夜になると暗く、眼鏡がないと余計に暗く感じるエルザだが、この会場の薄暗さにも閉口である。半端に明るいので、やっぱり前が見えにくい。
「大丈夫だ。ステップはわかるだろ。なら踊らせられるし、お前が見えなくても私が見てるから」
「ああ。そう。じゃあよろしく」
なんだか微妙に恥ずかしいセリフを言われた気がしたが、エルザはスルーして一曲踊ってみることにした。ダンスなんていつ振りだろうか。
楽団が演奏しているワルツに合わせてステップを踏む。やはりイングラシア公爵なだけあり、周囲の客たちもルカたちを避けていく。ある意味とても目立っていた。
「……足を踏めないじゃないか」
「わざと踏もうとするなよ」
何となく気恥ずかしくなったエルザがそんなことをうそぶくが、ルカはツッコミ返してきた。基本的にツッコミであるエルザとしては遺憾である。いや、当然の結果なのか?
「というか、あんた、女性恐怖症のくせに本当に私なら平気なんだね」
「たぶん、ダンスくらいなら大丈夫だけど、でも、やっぱり一番落ち着くのはエルザだな」
話をそらそうとして持っていく方向を間違えたようだ。なんだか背中がむず痒い。
「……ほら。恨みがましく私を睨んでくる子がいるから、その子たちと踊ってあげなよ」
確実にエルザたちより十歳は年下のご令嬢たちが、恨みがましくエルザを睨んでいた。まあ、結婚したい独身男性貴族一位であるらしいルカと踊っているのがこんな年増の別に美人でもない女なのだ。睨みたくなる気持ちもわかる。
すると、エルザの言葉を聞いたルカが背筋を震わせた。
「ない! それはない! 絶対に嫌だ」
「子供かよ」
子供っぽい否定の仕方に、今度はエルザがツッコミを入れた。軽く笑っていると、一曲が終了した。
「うん。ちゃんと踊れた。リードが良かったんだね」
「エルザも別に下手じゃなかったな」
「微妙に反応に困る返答をありがとう」
などと言う意味のない応酬をしながら再び壁際にさがったところで、「エルザ!?」と名を呼ぶ声が聞こえた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
鉄板ネタです。10センチのヒールで目がよく見えなかったら歩けないだろうなぁと。