補講12
「不安なんだよな」
エルザがそうしてルカに対して不安を口にするのは、初めてかもしれない。いや、妊娠が分かった当初に口にしたことはあるが、その時はエルザもルカも『親になるのだ』という認識が薄かったのだと思う。今とは重みが違う。
「お前でも不安になるんだな」
「不安ばっかりだよ。私は」
ルカが隣に寝転んでいるエルザの髪を撫でた。おなかが膨らんできたので、うつぶせに寝ることはできない。ルカの方はうつぶせに寝台に転がっていたのだが、体勢を変えて仰向けのエルザを少し引きよせた。エルザは近づいたルカの方に顔を向ける。
「私、ルカと結婚したことはうれしいんだ」
そう言うと、何故かルカはぽかんとした。何度か瞬きしてたっぷり間を置いてから口を開く。
「えっと。本気なのか?」
「冗談に見える?」
「真顔で冗談を言うタイプだろう、エルザは」
「否定はしないけど、ルカよりはマシ」
というか、ルカは真顔でボケるタイプだ。いや、本人はいたって真面目で本気なので、ボケているわけではないのだろうが、天然が入っているのでボケているように見えるのである。
「うれしいんだよ、私は」
もう一度繰り返すと、ルカは嬉しそうにきゅっとエルザの頭を抱きしめた。体を強く抱きしめられないのでこうされるのだが、こちらは角度を間違うと息ができなくなるのでそこが難点である。
「そうか。よかった……」
「でも、母親になるかもしれないってのは別」
エルザが続けた言葉に、ルカは腕を緩めてエルザの顔を見た。エルザ自身は天井を見上げたまま言葉をつむぐ。
「はっきり言って、ルカと結婚したときは、同棲するのと同じような感じだったから。私は一年のほとんどを大学で過ごしているし、ただ、夏に帰ってくる家が変わっただけで」
「ああ……少しわかるかもしれない」
結婚してそれほど経っていないと言うのも関係あるだろう。もともとエルザもイングラシア公爵家の使用人たちとは仲が良かったし、違和感があまりなかった。
しかし、ここで強烈な違和感を発するものが現れた。子供である。
「今でもさ、あんたの子が自分のおなかの中にいるっていうの、信じられないんだよね。大きくなってくおなかを見て『あ、本当にいるんだ』って気づくっていうか」
エルザは言葉を選びながら話していく。複雑な自分の心境を言葉にするのは、とても難しかった。
「……実は私も同じだ。実感がわかないっていうか。父上たちは『お前とエルザの子供なら、美人で頭のいい子になるだろうな』って喜んでたけど」
「……はは。顔はルカに似るといいね」
別にエルザも不細工ではないのだが、美人度合いではルカの方が上だから。
「ロレーナさんによると、父親ってそう言うものらしいよ。生まれてくるまで、子供ができたっていう自覚が生まれないんだと」
エルザが視線だけルカに向けて言うと、彼は「なるほど」とうなずいた。彼はエルザの髪をもてあそびつつ「わかるかもしれない」と言った。
「対して、母親は腹の中で子供を育てるわけだからな」
「そう! その差異が私とルカの認識の違いなんだよ」
何となく話が通じたので、エルザは興奮して身を起こそうとしたが、ルカがエルザの体の上に腕を置いて押しとどめた。エルザはおとなしく元の位置に戻る。
「……私としては、ちゃんと母親になれるか不安なわけで。覚悟する前に親になれ、子供を守れってなるわけでしょう。どうしようってなるよな。そして、夫はそれを理解してくれない」
「……すみません」
「いや、いいよ、もう。こういうのって、言えば結構すっきりするものだね」
エルザはそう言って笑った。しゅんとしたルカの手を握る。今なら、女性たちが集まって愚痴の言い合いをする気持ちがわかる気がする。
結局、エルザもルカも一緒に親になっていくしかないのだ。今回のエルザの不調は、彼女がらしくもなく不安を抱え込んでしまったことに起因する。
「すまん。ありがとう」
「うん。それで、お願いがあるんだけど」
「なんだ?」
寝転んだまま器用に首をかしげるルカに、エルザはにっこり笑って言った。
「過剰に気を遣わなくていいからさ。側にいてよ」
甘えを含んだ我がままである。だが、エルザがこういうことを言うのは珍しいので、ルカは了承し、エルザを抱きしめる。うん。あったかくてよく眠れそうだ。
△
エルザが産気づいたのは、春になりルカの誕生日が近づいてきたころだった。予定日よりも早いが、陣痛が来てしまったものは仕方がない。夜中に産気づいたので、一緒に寝ていたルカが動揺し過ぎて戦力外宣告を受けた。
「い……ったい……っ! ホントにシャレになってない……!」
繰り返す痛みに涙目になるエルザだ。彼女は高齢出産と言うほどの年齢ではないが、三十歳初産であり、さらに体格も細いので難産になるかもしれないとは医師に言われていた。しかし、まさか生まれるまでに丸一日近くかかるとは思わなかった!
もういっそのこと帝王切開してしまおうという案がなかったわけではないが、自然分娩と帝王切開を比べた結果、手術に移行しようとなったところで生まれた。現金なものである。さしものエルザも、帝王切開は怖かったのだ。
ちなみに、陣痛が丸一日続いたので、エルザ初の徹夜は出産となった。一日かかったのでルカは一度宮廷に出勤したのだが、仕事にならないと追い返されたそうだ。動揺し過ぎである。しかし、相当な難産だったので仕方がないのかな、という気もする。
生まれたのはほぼ真夜中と言ってよかったが、屋敷の人間はみんな起きていた。
「う、生まれたのか。大丈夫か……?」
「大丈夫だよ」
エルザは苦笑してルカに答えた。ものすごく疲れているし体は痛いし起き上がる気力もないくらいなのだが、目がさえていて眠れない。エルザは自分の隣で眠っている産湯を済ませた赤子の頬をつついた。
「男の子だよ。心配かけて、ごめん」
正直何度か死ぬかと思った。いや、結構本気で。付き合ってくれた医師や助産師、侍女たちに感謝だ。
「本当に、心配した。でも、ありがとう」
「うん」
身を起こせないエルザの頬を撫で、ルカは息を吐いた。エルザの指を赤子がギュッと握る。この小さな命が生まれてきてくれたことに感謝しなければならない。この子と共に、エルザも、ルカも、親になっていく。
エルザは自分の視界が潤み、自分の顔を濡らすのを自覚した。不思議だ。妊娠中は不安でたまらなかったのに、生まれると『よかった』という気持ちの方が大きくなる。
「エルザ? どうした?」
「うん……いや、よかったなって思って」
ルカがエルザの涙をハンカチでぬぐう。ぬぐってもあふれてくるのであまり意味がなかったが、一時的に視界は確保できた。
「ああ、そうだな……」
ルカは微笑んで言った。
「赤ちゃんを見て、自分が親になるんだとやっと自覚できた気がする」
「……実は私もそうなのかも」
二人は顔を見合わせて笑った。その拍子にまたエルザの目から涙がこぼれた。ルカは床に膝を付き、横になっているエルザと視線を合わせた。
「生んでくれて、ありがとう」
「うん」
うなずいたエルザの頬にルカがキスをした。それから彼は赤子の方も見る。
「生まれてきてくれて、ありがとう」
そして、ルカは赤子にもキスをした。エルザは笑ったが、赤子の方はそれで目を覚ましたらしく、火がついたように泣き出した。
「ど、どうする!?」
「抱き上げてあやしてあげなよ」
エルザは笑って言った。彼女がやればいいのかもしれないが、起き上がるのも億劫だし、さらに笑ったせいでおなかも痛い。なので、ルカが泣き叫ぶ赤子を抱き上げるのを見て笑うことにした。
頑張れ、新米お父さん。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
私は経験がないのですが、出産した知り合いは死ぬかと思ったと言ってました。




