補講9
社交シーズンが終わるころ、エルザは大学に戻ってきた。もちろん、賢者会議には出席し、問題なく復興が進んでいることを確認してからだが。
「こんにちは」
「いらっしゃい。……ん? なんだ。エルザ嬢ちゃんかい」
大学の構内にある眼鏡屋である。いつも通りに店主に『嬢ちゃん』と呼ばれたエルザは苦笑する。
「私を『嬢ちゃん』なんて呼ぶの、ご店主くらいだよ。年末で三十なんだけどなぁ」
「それでも、俺には『嬢ちゃん』は『嬢ちゃん』だ」
店主、ぶれない。
「それでなんだ? 眼鏡の調整か?」
「うん。つるのところがちょっと歪んじゃって」
と、エルザはかけている眼鏡を外して店主に渡す。使えないほどではないが、頻繁にずり落ちてくるので、こうして直しに来たのだ。
店主が眼鏡を治している間に、エルザは椅子に座って頬杖を付き、店主の手元を眺める。
「嬢ちゃんがつるをゆがませるなんて珍しいな」
「まあ……たぶん、メガネかけたまま寝落ちしたせいだと思うんだけど」
「なるほど。それでレンズを割ったこともあるからな、嬢ちゃんは」
「いや。今回が旦那が下敷きにしたんだよな……」
レンズを割ったのは、寝落ちしたエルザが眼鏡を床に落としてしまったからだが、今回つるがゆがんだのはルカが突然押し倒してきたことが原因である。おかげで賢者会議にもゆがんだ眼鏡で出席することになった。いつもは予備眼鏡を持っているのだが、うっかり大学の寮に忘れてきていたのである。
「そういや、あの兄ちゃんと結婚したんだってな。おめでとう」
「……ははは。ありがと」
そう言えば、この店主とは結婚後初めて会うのだったか。エルザとルカが結婚したのはこの春のことで、まだ前学期中であったが、用事がなかったのでこの眼鏡屋には顔を出していなかった。
「まあ、収まるべきところに収まった、という感じだな」
「……それ、みんなに言われるんだよな」
「だろうな」
店主にも肯定されて、エルザは少し面白くない。何故みんなそんな結論に達するのだろうか。
「別にずっと恋人同士だったとか、そう言うわけじゃないのに」
「そう言う問題じゃないからなぁ」
店主はしみじみとした口調で言った。
「嬢ちゃんと兄ちゃんの間には、誰にも入り込めない雰囲気があった。他人があんたたちの間に割り込む隙なんて、初めからなかったんだよ」
「……なるほど。それ、わかりやすい」
今までレベッカやアレシアたちにいろいろ言われてきたエルザであるが、店主の説明が一番わかりやすかった。エルザとルカの間に何人も割り込むことができない。だから、二人が結婚したことで『収まるべきところに収まった』ということになるのだろう。
「兄ちゃん、優しくしてくれるだろう」
「……まあ、他の男ではありえないくらい寛容だとは思うね」
エルザがそう答えると、そう言うことじゃない、と店主は言った。
「前より女らしくなった」
「……それ、前が女らしくなかっただけじゃなくて?」
夏前のエルザは相変わらず野暮ったい恰好をしていたが、今日はルカのチョイスで落ち着いた緑のワンピースである。エルザは何を着ても色が反発したりしないので、比較的選びやすいのだそうだ。エルザ自身はまるっと丸投げしたのでよくわかっていないが。
「それもあるが……それ、兄ちゃんが選んだだろう」
「ご明察」
要するに、店主はエルザの趣味ではないと思ってそう言ったのだろう。店主は「嬉々として選んでそうだな」と、ルカのことを良くわかっていると思った。
「服装もだが、なんというか、丸くなったな」
「太ったって言いたいわけ?」
「ある意味そうだが、女性らしい体つきになったと言うことだ」
「……いや、私も悪かったけどさ。それ、ご店主じゃなかったら殴ってるよ」
それくらいにはセクハラに近いセリフだった。いや、あえて言わせたエルザも悪いことはわかっているが。
「ほら、直ったぞ。かけて見ろ」
「ありがとう」
エルザは差し出された眼鏡を受け取り、耳にかけた。歪みがなくなり、ちょうどいい感じにフィットしている。
「うん。大丈夫」
「そいつはよかった。代金は、結婚祝いだ。割り引いてやる」
「それでもちゃんと取るんだな……」
結婚祝いにタダにしてやるとかはないらしい。まあ、言われても払うつもりだったから、割り引かれるくらいの方がちょうどいいのかもしれない。
「それじゃあ、旦那と仲良くな」
「わかってるよ。どうもありがとう」
エルザは店主に手を振り、店を後にした。せっかくなので、ドルチェでも食べてから寮に戻ろうかと思った。
△
「エルザ先生?」
大学の校舎内を歩いていると、声をかけられた。振り返ったエルザの顔を見て、今学期ついに四年生となったロザリアがほっとした顔になる。
「良かった。先生だ。いつもと雰囲気違うから見間違いかと思っちゃった」
ロザリアの様子にエルザは首をかしげる。
「どうかしたのか?」
「うん。先生いつもよりきれいに見えます」
「……そうじゃなくて、何か用があるんじゃないの?」
はぐらかそうとしたロザリアにそう返すと、彼女は「うっ」と詰まった。
「……課題が、まだ終わってません。あと一週間待ってください」
「正直でよろしい」
言い訳しないところがよい。一週間で出さなかったら追加課題を出す、と言って、エルザはロザリアの課題の提出期限を延ばすことにした。こうして事前に潔く言ってくれればよいのだが、言い訳がましく言ってくるものもいる。エルザはそう言う学生には追加課題を出すことにしていた。
まあ、ロザリアたち四回生はエルザのこういった性格をよく知っているので、事前に申し出てくる。
「あーでもよかった。先生、退職してたらどうしようかと思ったもん」
女子学生の一人がそう言った。ちなみに、彼女はエルザの授業は受けているが、研究室に所属しているわけではない。大学教員に女性は少ないので、自然にこうしてエルザの元に女子学生たちが集まってくる傾向がある。たぶん、彼女が学生たちと一番年が近いからというのもあるだろう。
「こうやってだべれないしね~」
と、この子もエルザの研究室の子ではない。でも、お菓子を食べてお茶も飲んでいく。
「だべるのはいいけど、お前たち、課題はちゃんとやったのか?」
「もちろん!」
「終わってない!」
元気に誰かが言い切った。終わっていない、と言い切った彼女にツッコミの嵐である。
「ちょっと、終わってないのにこんなにのんびりしてていいの?」
「そうだよ。ロザリアだって終わってない! って言って図書館でレポート書いてるんだよ」
「むー」
つっこまれた女子学生がむくれる。
「先生だって、新婚さんなのにここでのんびりしてるじゃない!」
「これでも忙しいんだぞ」
と、エルザは女子学生たちがだべっている側で仕事をしている。決してのんびりしているわけではない。
「でも確かに、私たち的には先生がいてくれてうれしいけど、旦那さん的にはどうなんですか?」
「らぶらぶなんじゃないの?」
「それ、前にも聞かなかったか?」
エルザはツッコミを入れつつ返す。
「変なこと聞くんじゃないよ。私のことなんて聞いて何が楽しいの」
「え、楽しいですよ」
「先生ののろけ話とか聞いてみたい!」
などと学生たちは言うが、一応分別ある大人でありたいエルザは、彼女らの質問には答えなかった。
「いいから、あんたたちはそこでしゃべってろ。それから、課題はちゃんとだしなよ」
「はぁい」
返事だけはよいのだ。四回生になった彼女らは、卒業試験に卒業論文も控えている。今のうちに楽しんでおこうと思うのはわからなくはない。エルザは、再びくだらない話で盛り上がる女子学生たちを見て眼を細めた。
一年後には彼女らと別れることになると言うのは、エルザにとっても少しさみしい。この騒がしい子たちが、エルザも結局は好きなのだ。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
エルザはアラサーなので、たぶん、学生たちと一番年齢が近い。




