第3講義
というわけでルカと出かける日の朝、エルザはフィユール大学南東門前でルカを待っていた。フィユール大学は王都ゾラ郊外にあり、王都から来るルカを少し待つことになる。
キャプラ国立フィユール大学は『大学の中に街がある』と言われる。つまり、大学が一つの街を形成しているのだ。だから、大学の敷地内で十分暮らせるほど店などがあるし、実際、エルザもゾラにあるロンバルディーニ公爵邸からではなく、学内の教員寮に居を構えていた。
休日とはいえ、王都ゾラに面している南東門は人通りが多い。ちらっとエルザを見て視線をそらし、それからあわてて振り返る学生が何人かいた。そんなにエルザの待ち姿が珍しいのだろうか。
「……エルザ?」
「なんで疑問形なんだよ」
近づいてきてまじまじとエルザを眺めてから疑問を発したのは待ち人であるルカだった。どこかに馬車を置いて、ここまで歩いてきたらしい。濃紺の貴族のお忍び的な格好をしているが、やっぱり貴族だなとわかるくらいには気品のある姿である。
「ああ、やっぱりエルザだ。ちょっと安心した……」
ルカがほっとした様子で言った。どこにほっとする要素があったのかわからないが。
「ちょっと引っかかるところはあるが、今日もハンサムだな、ルカ」
「ああ、ありがとう。エルザは……似合っているが珍しい格好だな……」
今日のエルザはいつもの暗い色合いの詰襟ドレスではなく、明るい緑のドレスを着ていた。外出用なので簡素なデザインであるが、ドレスの淵を彩る刺繍は見事だ。アレシアが宣言した通り、ツーピースに分かれたものとなっている。いい大人であるエルザに似合うようなデザインを探すのは大変だった。
アレシアも言っていたが、エルザは身長が高めだ。そのため、足元はブーツである。まあ、出歩くことを前提としているから当たり前であるが。しかし、ルカはおそらく、ハイヒールを履いたエルザよりも長身だろう。
「似合ってるなら文句ないだろ。まあ、この格好の私の隣を歩くのが嫌だと言うのなら着替えてくるが」
着飾った女性を見るとびくっとなる女性恐怖症のルカに気を使ったつもりなのだが、彼は「いや、大丈夫だ」と首を左右に振った。
「似合っているし、私はエルザがエルザならそれでいい」
「言葉だけ聞くとロマンチックな気がするけど、結構ひどいよねそのセリフ」
相変わらず、さりげなくひどい気がするのはエルザだけだろうか。
「まあ、構わないなら。行こうよ。ファイエラ湖に連れて行ってくれるんだろ」
エルザは一応化粧も施した顔に笑みを乗せて言った。ちなみに、これだけ装ても眼鏡はかけている。別に眼鏡がないと生活できないほど目が悪いわけではないが、外出するときはないとやはりちょっと怖い。
馬車は待たせてあるの、と尋ねながら先に歩きだそうとしたエルザの手をルカが取った。一応、女性恐怖症の彼に気を使っていたのだが、やはりエルザは女と認識されていない気がする。
馬車は紋章の書かれていないものだった。二人が乗り込んだ馬車はゆっくりと走り出す。
「ところでその服、どうしたんだ?」
「ツッコむところはそこなのか?」
と、突っ込み返したエルザであるが、まあ、確かに普段のエルザを知っていれば「どうした?」となるだろう。普段は野暮ったい恰好をしているから。適当ともいう。
「アレシアに付き合ってもらって買って来たんだよ。さすがにいつもの恰好は外出に向かないと思って」
「うん。正直私もないなーと思っていた」
君が気にしてなかったから私も何も言わなかったけど、とルカ。エルザは反応に困った。ないわー、と思っていても言ってこなかったルカに感謝すべきなのか、指摘して来いよ、と反論すべきか。まあ、たぶん言われてもなおらなかっただろうし、ルカの反応は間違っていない。
「でも、さすがはアレシアだ。よく似合っているよ」
「うん。やっぱりお前、私に謝る気はない?」
「なんで?」
「……」
「……きれいだなってことだったんだが」
「……そう。いや、一応ありがとう」
「うん」
ルカが微笑む。エルザはとりあえず礼は述べたが、世辞だろうか、と考える。しかし、ルカが女性の装いを見て「きれいだ」と世辞を言えるとは思えないので、やはり本心なのだろうか。
考えても詮無いことなので、エルザは軽くかぶりをふって頭を切り替えた。彼女はこういうことも得意だった。
「アレシアと買い物に行ってきたのか」
「まあね。今シーズンの社交界にも出て行けるようなドレスも、一応注文しておいたけど」
と、ルカをうかがうように見ると、彼は申し訳なさそうに言った。
「すまん。ありがとう。私もあまり行く気はないが、何度かでなければならないと思う」
「いや、想定の範囲内だ。問題ない」
エルザが力強くうなずくと、ルカはほっとした様子を見せた。
「悪い。苦手なのに」
「まあね。でも、それはルカもだろ。どうせ社交シーズンは夏休みで講義はないし、一日研究で引きこもっているよりはまし……だと思う」
「研究の時間が削られるとは思わないのか?」
「時間があるから研究しているからね、私は」
つまり、研究をしたくてしたくてたまらなくて研究に時間を使っているのではなく、時間があるので研究に費やしているタイプなのだ、彼女は。いや、研究も好きだが。
それに、資料さえあれば研究はどこででもできる。今年の夏は王都の屋敷に戻ることになるかな、と思った。面倒だけど。
「本当にありがとうな、エルザ」
「代わりに研究費は出してもらうからな。ちょうどほしい専門書があって」
「わかった」
「さすがに金のある男は違うな!」
即答だったのでエルザの方がびっくりした。値段も聞かなかった。さすがは公爵様!
「……まあ、正直、金を持て余している感はある」
「何かの事業にでも投資すれば?」
「そう言うのは苦手だ。お前がやってくれるなら投資するが」
「絶対嫌。面倒だし」
一応、エルザは経済・経営学の知識もあるが、あくまで理論だけだ。やったことはないので失敗する可能性が高い。それに、そんなことをするくらいなら研究をする。
そんな不毛な会話をしている間に、馬車は目的地であるファイエラ湖に到着した。先に降りたルカが差し出した手を、少し迷ってからとり、エルザは馬車を降りた。少し歩くと湖が見えてきた。
「広いな」
エルザが言った。ファイエラ湖に来るのは初めてではないが、こんなに広かっただろうか、と思った。対岸が遠い。湖の上にはボートもちらほらと見え、どうやらカップルが多いらしい。そりゃそうか。王都に近いデートスポットであるし。
デートスポットとはいえ、二人はほぼ観光をしに来たも同然だ。湖のまわりの遊歩道をゆっくりと歩き、散歩をする。広い湖の半分を歩いたくらいのところで、エルザは言った。
「ルカ。昼食にしない? 宣言通り持ってきたから」
と、事前に『お昼を持って行ってピクニックにしよう』と言っていたエルザは、現在ルカが持っているバスケットを指して言った。最初はエルザが持とうとしたのだが、さすがにそれは、とルカが取り上げたのだ。確かに、大きさ的にちょっとかさばるけど。
「ちなみに手作りか?」
「そうだけど、料理人に作ってもらった方がよかった?」
「いや。お前、多才すぎやしないか?」
「寮生活だとねぇ。こういうこともできるようになるんだよ」
ルカから入ったツッコミにエルザはそう返した。エルザは現在、大学に通うが女子学生、および女性教員が暮らす寮に入っているが、一応寮にも食堂がある。しかし、食いっぱぐれた時などは自分で調理しないと何も出てこない。食事の時間が決まっているのだ。なので、必然的に身についた。
「まあ、簡単なものだけど。パニーノとピアーダとあと、スフォリアテッレもある」
「けっこう作ってきたな」
「パンは市販だけどな」
さすがに作るほどの時間はなかったのだ。作ろうと思えば作れるけど。
敷布を広げてエルザはバスケットを開けた。ためらいなく隣に座ったルカにとりあえず水筒に入れた紅茶をマグに注ぎ、差し出す。
「はい」
「ありがとう」
ルカがマグの紅茶に口をつけるのを目を細めて見ながら、エルザは言った。
「好きなの食べな。寮の食堂で作ってたから、学生たちにいくらか持って行かれたけど」
エルザがいるヴァニア寮には、フィユール大学に通う女子学生のほとんどと、女性職員のほとんどが暮らしている。なので、朝から昼食を作っていると、女子学生たちが「何それほしい!」と言ってくるのだ。エルザは比較的学生たちと年齢が近いので、慕われている……というより、なめられている気もする。
「そうなのか。楽しそうだな」
「楽しいよ」
たぶん、エルザが結婚しないのは、現状が楽しいからというのもあるだろう。
ルカはパニーノを手に取りかぶりつく。エルザもチーズとトマト、レタス、ハムをはさんだパニーノを手に取って食べ始めた。うん。自分で作ったものだが、なかなかの出来である。
「うまいな」
「それはよかった。焼いたやつもおいしいんだけど、冷めるから持ってこなかったんだよね」
学生たちは遠慮なく焼いて食べてたけど。
「なるほど。今度作ってくれるか?」
「……別にいいけど」
なんか普通にデートっぽい気がする。いや、普通のデートってどういうものかわからないけど。
パニーノとピアーダを一つずつ食べきったエルザは少し迷った。デザートのスフォリアテッレも食べようかどうか、ということである。女を捨てているなどと言われるエルザだが、太るのは気にする。
スフォリアテッレはひだのように重ねた生地にチーズやクリームを入れて焼き上げる菓子だ。おいしいが、硬い。しかし、持ち運ぶには最適。
「お前何してるんだ」
じっとバスケットを眺めていたために、ついにルカからツッコミが入ってしまった。どちらかというと自分がツッコミだと認識しているエルザとしては不覚である。
「……いや、スフォリアテッレを食べるか迷っていて。まあ、今食べなくてもまた作ればいいんだけど……」
多めに作ったので寮にも置いてきたが、絶対に学生たちに食べられている。
「お前でも太るとか気にするんだな」
ルカの言葉がなかなかにひどいが、そう思われても仕方がない生活態度なので仕方がない。
「多少はね。あとで動けば問題ないかな」
「じゃあ、あとでボートでも乗るか」
それは動くとは言わない。動くのはボートだから。
「いいけど、漕ぐのはルカだからな。私、腕力ないし」
護身術程度は使えるエルザであるが、さすがにオールをこげる腕力はなかった。ルカは「任せろ」と笑うのでエルザはスフォリアテッレを手に取ってかぶりついた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
エルザは普段おしゃれしないので、みんなビックリして振り返ります。ルカもちょっとびびっています。
ふと思ったのですが、今の連載の主人公の年齢が、二人とも高めですねー。