補講3-2
ルカはポンコツであるが、エルザも残念な女である。風向きが変わってきたと、クラリッサやカティヤたちが喜び、彼女らに風呂につっこまれたエルザは、あちこち磨かれて逆に疲れた。そう言えば、結婚式の時もこんな感じだった。
凝った気がする首をまわしながら、エルザはぺたぺたと寝室に入っていった。そこでは同じく夜着を着たルカが真剣な表情で本を読んでいた。よく見ると、専門書だ。一見とても絵になるのに、ベッドの上であると言うのが非常に残念である。
「……何読んでるの」
手に持っていた眼鏡をかけながら、エルザはルカに近づいた。ルカが顔をあげてほっとした表情になる。
「ああ、エルザ。ちょうどよかった。教えてほしいんだが」
「内容にもよる」
エルザは歴史学者であり、それに関してはルカより知識を持ち合わせているが、歴史以外になるとおそらく、ルカの方が詳しいだろう……。
と思ったら、異国語の専門書だった。辞書を片手に格闘していたらしいが、わからないらしい。
「……裁判用例集みたいだけど、なに? ルカ、裁判でもするの?」
エルザが専門書を覗き込んで尋ねると、ルカが「ああ」とうなずいた。
「宰相が参考になるから読んでおけと。私もそれなりに読めるつもりだったんだが……」
「専門用語が多いからね。私もたぶん読めないだろうね」
と言いながら、エルザはルカに引っ付くようにして専門書を眺める。おそらく、この言語の理解度はエルザの方が高いが、専門用語的にはルカの方が優れているだろう。
何とか二人で解読を試みたが、二ページ進んだところであきらめた。
「ルカ。教えてあげるから外国語勉強しようよ」
「それよりエルザが法律学を勉強した方が早い気がする」
何故他人任せ。いや、エルザも似たようなことを言ったけど。お互いにお互いの頭の良さを知っているから出てくるセリフだった。
エルザは辞書をぱらぱらとめくり、ルカの肩に頭を乗せた。
「辞書もさぁ。専門用語用の辞書を持ってきた方がいいよ。たぶん、宮殿の書庫にあるでしょ」
「……そうだな」
やや上の空の返答がきて、エルザは体を離してルカを見上げた。
「どうしたの」
「……今の、もう一回」
「は?」
意味が分からなくて眉をひそめると、ルカは真顔で言った。
「今の、もう一回やってくれ」
「……」
まじめな顔でこの男は何を言っているのだろうか。エルザはじっと夫である男の顔を見つめ、それから再びルカの肩に頭を乗せた。
「おっ?」
すると、今度はルカがエルザの肩をつかんでより自分の方へ引き寄せた。エルザの膝に乗っていた辞書がシーツの上に滑り落ちた。
眼鏡がずれたので直そうと手を上げると、その前にルカが空いている方の手で彼女の眼鏡を取り上げた。エルザは「ちょっと」と眼鏡に向かって手を伸ばすが、ルカはそれをサイドテーブルに置いた。
「お前からくっついてくることなんてめったにないからな。堪能しておこうと思った」
「何それ……」
と言いながらも、エルザは自分から頬を摺り寄せ、目を閉じた。こうして誰かの側にいられると言うのは、結構いいものだ。ルカもエルザの頭に頬を寄せた。
何となく沈黙が流れるが、心地の良い沈黙だった。ルカに支えられている安心感から、このまま寝てしまいそうな勢いである。
「エルザ」
「ん?」
名を呼ばれたので目を開いて顔を上げると、ルカは彼女の後頭部に手を回し、キスをした。初めは目をしばたたかせていたエルザであるが、角度を変えて何度も唇を吸われ、鼻から抜けるような甘い声が漏れた。これにはエルザ本人の方がびっくりである。
ルカがエルザの栗毛をまとめて持ち、首を露出させた。その首筋に彼は唇を寄せる。
「い……っ」
エルザが涙目になる。肌を舌が這う感触が生々しい。しかし、決していやではなかった。
力の抜けたエルザは、荒い息をしながら後ろに倒れた。ベッドがぽすん、と彼女の体を受け止める。駄目だ。二十九歳の経験の浅い女には対応しきれない状況である。
「大丈夫か?」
ルカの手がエルザの頬を撫でた。相変わらず真顔で人を甘やかしてくるルカを睨み付ける。やっぱりダメだ。こんなの、エルザのキャラではない。
エルザは起き上がると、ルカの夜着の襟首をつかんで自分の方へ引き寄せ、その首に思いっきり歯を立てた。
「……っ!」
突然の凶行にさしものルカも悲鳴を飲みこむ。ベッドの上に乗っていた辞書が、重い音を立てて床に落ちた。
△
「おはようございまぁす」
カティヤの暢気な声が聞こえ、エルザは目を開いた。視線だけを上げるとベッドの側に笑っているカティヤの顔が見えた。
「……おはよう」
小さな声で言うと、カティヤは「まあ、もうお昼近いんですけどね」と発言した。そうだろうなと思っていたエルザはため息をつき、起き上がろうとして来ていた夜着が盛大にはだけているのを確認した。しかし、見ているのはカティヤだけだからまあいいかと開き直ることにした。
「わお。セクシーですね!」
何故かカティヤが嬉しそうに言った。とりあえずずり落ちた袖とめくれ上がった裾を直し、エルザは「ルカは?」と尋ねた。
「呼び出されたとかで、宮殿に行きました」
「ああ、そう……一緒に起こしてくれればよかったのに」
「旦那様が良く寝ているから寝かせおけって言ってましたから」
にこりとカティヤが笑う。エルザは微妙な表情になった。気を使われたのはわかるが、ルカを見送れなかったのがちょっと残念な気もした。
「……母にはこういうことを聞くなって言われるんですけど」
「なら聞くな」
「ええ~」
カティヤが残念そうな声を上げる。どこか憎めない子なのだなが、これは使用人としてどうなのだろうか。カティヤと会話をしているうちに復活してきたエルザは立ちあがり、カティヤが差し出したガウンを着ながら言った。
「とりあえず、おなかすいた」
「了解です。あ、でもやっぱり聞いてもいいですか?」
カティヤはエルザが口を開く前に言葉を続けた。
「旦那様、優しかったですか?」
エルザはルカ張りの真顔で容赦なくカティヤの額にデコピンを食らわせた。カティヤが「いた~い」と額を押さえる。
「まったく。だからクラリッサに怒られるんだ」
「あ、よく言われます~」
へらっと笑ってカティヤが言った。自覚があるのならなお悪い気がするが、本人がへらへらしているのでため息しか出ない。
「着替える」
「わかりました。私はお部屋に朝ごはんを持ってきますね」
カティヤがそう言って出ていった。エルザは事前にカティヤが用意したワンピースを手に取った。
これが普通の貴族女性なら、使用人に手伝わせて着替えるところだろうが、あいにくとエルザは普通ではない。大学の寮で長らく暮らしているエルザは、自分のことは大概一人でできる。むしろ、手伝われることに違和感を覚えるほどだ。適当に髪を梳き、一度束ねると、ガウンと夜着を脱いだ。それからスリップを着てワンピースを着た。なお、この屋敷にいる限り、エルザの趣味は反映されない。もともと何を着ればよいかわからないタイプの人間なので、選んでもらえる方がありがたかった。でも、着替えは自分でする。
「失意礼いたします」
戻ってきたのはカティヤではなく、その母親のクラリッサだった。着替え終えたエルザを見て、クラリッサは目を細める。
「お体は大丈夫ですか?」
「平気。おなかがすいてちょっと気持ち悪い」
「……大丈夫そうですね」
クラリッサが苦笑してエルザに言った。クラリッサは円卓に軽食の乗ったトレーを置くと、エルザに厚手のショールを羽織らせた。エルザは座ってそれを食べ始める。
「奥様。今夜は舞踏会に招待されておりますが」
「任せる」
エルザはあっさりと投げた。きっと、クラリッサがやった方がエルザがやるより良いだろう。それにしても、『奥様』と呼ばれるのは面はゆい。
「わかりました。それまで何をされるご予定ですか?」
それはもう決まっていた。
「語学勉強」
エルザも、昨夜ルカの専門書が読めなかったのが悔しかったのである。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
どちらも淡々としているのになぜこんなに胸焼けするのか……。




